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野良猫ロスのゆらめきと『野のなななのか』 長塚圭史
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青い空と菜の花畑を妻が写しました。この青空にあの女(ひと)の顔を乗せると映画のワンシーンになるやもしれません(常盤貴子さん撮影)
朝になるとやってくる野良猫のロス(半年程前に当連載に登場したすぐにシャーと唸る猫である)が1週間ぱたりと姿を現さないので、引っ越したのかもわからないねえ、なんて呑気(のんき)に構えていたのだけれど、最後に我が家で朝飯を食らったそのときには、だいぶ具合が悪そうだったという話を聞いて、ひょっとするとあれももう人目につかないどこかで命を閉じてしまったのかもしれないと、覚悟というほどの馴れ合いもないのだけれど、それに近いような気持ちになった翌朝、ふいっとまた現れた。
別に猫なのだからいつの間にやらそこにいるようなことに不思議はないのだけれど、本当にまばたきしたような間にそこにひゅっと在ったものだから、やや驚いた。半年以上我が家の庭に出入りはしているものの、撫でるといったようなスキンシップは一切取らずにいる。ロスがそれを望んでいるようには見えないし、私たちも前のめりに猫を愛でたいという質(たち)でもない。それでもまあ「何処へ行ってたんだい」程度の言葉をかけながら、習慣的に常備するようになった餌をやった。
相変わらず警戒心たっぷりに、餌を盛った私が硝子戸を閉めて家中に入るまでは決して近寄らず、ふたつほどの間をおいてから寄ってきて、あまり美味しくもなさそうにもそもそやり始めた。柔らかい缶詰の餌は驚喜して食らうのだけれど、乾燥したものはもそもそやることが多い。あまりジロジロ見ては食べにくそうなので放っておいたら、途中で食らうのはやめて、ちょっとしんどそうに数歩歩いて座り込んだ。何となく尻尾に元気がない。歩き方も極端に弱々しく、ひどい喧嘩をしたか、それか大きな病気なのかもしれないなあと考えているうちにまた忽然(こつぜん)と姿を消した。
はっきりとしないまでもロスに「死」がまとわりつき始めたと私は感じる。以前にも一度「死」があいつの周りをふわふわ漂っていたように思うことがあったことを思い出す。「死」を漂わせる野良猫なんてのはあんまり気持ちの良いものでもないのだけれど、それは同時に「生」の強さも香らせた。苦しくても食らおうとするエネルギーは「死」を傍に輝く「生」だ。ところが今朝のロスに「生」の輝きは見て取れなかった。それどころかまばたきの間に姿を現したロスは、真実生きた猫であったのかどうかさえ定かでなくなる。
残された餌を見れば、それは明らかにリアルにそこに在るのだから確かにここには来たのだけれど、あれは既に死んでいたロスだと言われても、そんなこともあるのかもしれないと思わせるような佇まいであった。
こんなふうに案外生々しく生きているものと死んでいるものがすれ違うようなことも、時にはあるのかもしれない。特にこんな端午の節句を過ぎて尚、ストーブに火を入れなければならないような季節外れの肌寒い、曇っているばかりなのに雨降りのような妙な日には、尚更有り得るのではないか。
七七日(なななのか)の間には生きているものと死んでいるものとの境界線がぼやけて霞んでわからなくなって、皆が行き交うようになるという映画を観た。それは劇映画を観賞したというよりも、映画体験をしたという感触であった。大林宣彦監督はあるひとりの老人の七七日に、2つの大きな時間と歴史を放り込んだ。生者と死者が互いに彷徨(さまよ)い歩けるその期間こそ、「死」が間近にゆらめくその時こそ、「生」とは何たるかをそれぞれ問えるのではないか。死者の声がすっかり聞こえなくなる前に、生者は気付かねばならない。
『野のなななのか』なる映画はともすると何やら捉えどころのない物語に、メッセージがぐいと前に押し出されていると思う人もあるかもしれないが、ひとつ常識というつまらないネジを緩めてみると、たちまち幻想の視点に誘ってくれる。その場所から眺める人びとや北海道の芦別なる街の風景は現実以上に鮮やかだ。
おそらくこの映画のことが頭から離れないゆえに、今朝の陽炎(かげろう)のようなロスのゆらめきに、「死」のまといを感じ取ったのかもわからない。理屈を越えた目玉が鮮度を失わないうちに、日々の営みに漫然と呑み込まれぬうちに在りたいものだなあと思いつつ、それでも「生」をまとったロスの来訪を、明日の朝、静かに待ってみようか。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS)