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山の中で「泣ける自分」発見できたのでしょう 「八月の六日間」著者 北村薫さん
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実は登山経験はほとんどないという北村薫さん。「登らないからこそ想像が広がるのかも」とほほえむ=2014年5月9日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影)
直木賞作家、北村薫さん(64)の3年ぶりの新刊『八月の六日間』が刊行された。ファン待望の新作の舞台は「山」。アラフォー女子の「わたし」が、欠け落ちた心の部品を、山を通じてゆっくりと取り戻していく連作長編。待望の新作とあってついつい気持ちがせいてしまうが、深呼吸するように、ゆっくりとページをめくりたい。
40歳目前、文芸雑誌の副編集長をしている「わたし」。若い頃は負けず嫌いで、上司を泣かせたこともある。今は肩書が付き、上司と部下の間に挟まれて心を擦り減らすことも多い。恋人とは、3年前に別れた。どんよりとした不調の日々。「助けて…」。そんなサインをキャッチしたかのように、同僚の「藤原ちゃん」から、突然山に誘われた-。
槍ヶ岳、雪の裏磐梯、常念岳、天狗岳、双六岳…。切り立つ岩場や、きらめく雪原。ページのそこかしこに、山の空気が満ちている。さぞかし自身も山が好き…かと思いきや、実は山には登ったことがないという。「散歩するのもおっくうなぐらい(笑)。コタツの中で想像力を膨らませて…。すごい? それが小説家の仕事ですから」といたずらっぽくほほ笑む。
なぜ、山。「山好きの女性編集者から話を聞いたことがきっかけ。山を歩くことでいろんなことを考えるでしょう。普段、忙しい生活の中ではあまり立ち止まって考えないことを。あ、これは書けるな、と」
藤原ちゃんとともに、初めて山を訪れた「わたし」。偶然迷い込んだ涸れ沢が、悲鳴を上げていた心を救った。どこまでも続く紅葉のアーチ、ひとつひとつきらめく葉…。〈めったに、つんとはしない、させない涙腺が、何だか緩みそうになった〉。以来、一息つくたびに、いや、一息つけるために、「わたし」は山へ向かう。〈わたしは山に行くと、涙もろくなる自分を発見する。それは山が、わたしの心を開いてくれるということだろう〉
「生きていけば、いろんなことがある。身動きを取れなくなることもある。そんな中で、山に行くと、感情が開放される。人は本当は泣きたい。でも、日常生活ではなかなか泣けない。彼女は、山の中で『紅葉を見て泣ける自分』を発見できたのでしょう」
心をほどいてくれるのは、山の景色だけではない。そこで出会う人もまた、救いだ。「山でなら、いきなり会った人からも、素直にキャラメルをもらうことができる。普段の通勤電車の中では、そんなことはできないでしょう?」
特に派手な事件が起きるわけではない。仕事をして、山に登る。歩きながら、過去のつれづれを思い起こす。読者は「わたし」と歩を同じくし、追憶の流れに身をゆだねる。「20代のようにがむしゃらでもなく…40代という年代ならではかもしれませんね。しみじみと振り返るだけの過去の蓄積がある」
本作もそうだが、女性を主人公にすることが多い。「女性の方が書きやすいですね。どうしても男性を主人公にすると、同じ40代でも社内の抗争だったり、上昇志向や出世の話になってしまう。自分の価値観はそういうところよりも、日常の中で一歩ズレたところにある。山もそう。日常の中でちょっとズレた時間ですよね」
恋人との別れ、親友の死。いくつもの喪失を抱えた自分の心をさぐるように、歩を進める「わたし」。「誰しも、いろんな欠落を抱えたまま生きている。それをいかに、処理し、解決するか。自分や他人に対して、『生きていていいんだ』という許しを得るか。そこにたどり着くまでの物語です」
癒やし、というと安易かもしれない。けれど、確実に心がやわらかくなる読後感。まるで山に登ったかのように、開放された自分を発見できるはずだ。(文:塩塚夢/撮影:宮崎瑞穂/SANKEI EXPRESS)