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科学
【タイガ-生命の森へ-】逆さまに映し出す水鏡
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カラフトグワイはロシア極東やヨーロッパの寒冷地に咲く水生植物。北海道では絶滅危惧種=2012年6月28日、ロシア・クラスヌイ・ヤール村(伊藤健次さん撮影) いくつもの枯れ木が沈んだタイガの水辺に、白い花が咲いていた。カラフトグワイだ。風のない水面がきれいな水鏡となって、鬱蒼(うっそう)とした森を逆さまに映し出す。
水面に溶け込んだ森。逆さまに並ぶ花々。動物の角のような枯れ木-。わずかに揺らいだ対称的な風景をじっと眺めていると、不思議な気持ちになってくる。いま目にしている風景の陰にも目に見えぬ水面下の空間が深く広がっている。気がつかぬだけで、世界はいつも絡み合った複数の層が潜んでいる、そんな暗示がにわかに浮かんでくるのである。
それはタイガの“けもの道”でも感じることだった。広葉樹と針葉樹が混ざり合うウスリータイガは木の密度が濃く、全体に背が高い。密林に入ると巨木の群れにとり囲まれた感覚だ。その中に続くけもの道-そこを人も通るのだが-を歩いていると、巨木を支える目に見えぬ根が、足元にも密林のように張り巡らされている不思議さを思わずにはいられない。
そして人が去った同じ道をクマやイノシシが歩き、夜の闇の中、タイガの王であるアムールトラが堂々と歩いているのである。
そんな想像にふけっていると、群青色のトンボがどこからか飛来し、水鏡に小さな波紋を残して消えていった。
≪生命の揺りかご 「のぞいてごらん」≫
ビキン川の上流には道路がない。雪のない時期、村から奥のタイガに入るには舟を使う。いわば川こそが道だ。いつも舟で移動するせいか水面がとても身近で、暑い日にはつい潜ってみたくなる。魚やカワウソがいそうな淵(ふち)が次々と現れ、「のぞいてごらん」と誘っているようだ。
ある年の6月。そう、30度を超える真夏日のこと。ビキン川上流での探索を終え、猟師のカルーギン兄弟と3人で延々と流れを下ったことがあった。
エンジンを切って舟を流れにまかせながらルアーを投げる。面白いようにレノーク(コクチマス)がかかった。澄み切った水から弾力のある魚体が跳ね上がっては水飛沫(みずしぶき)と光をまき散らす。川辺の森は精気にあふれ、いくら下ってもどこにもダムなど見当たらない。川がまったく川のままの幸せな川旅だった。
やがて僕の竿(さお)にズシンと異様な重みがかかった。竿が三日月のようにしなり、魚が水中を突っ走る。リールがギーと悲鳴を上げ糸を吐き出す。「タイメーン!」。兄のセリョージャが叫ぶ。水面で身を翻した銀鱗は1メートル近い大物だ。タイメンは北海道にも生息するイトウの仲間だがメートル級の魚はめったに見られない。
舟を岸に寄せ、僕も舟から降りて魚との引き合いになった。今まで経験したことのない重さ。えたいの知れない水中の怪物でもひっかけ、引きずり込まれるのではないかという恐怖さえわいてきた。
興奮の中、いったいどれだけ時間が経っただろう。魚も疲れたらしく少しずつ岸に寄り始めた。だが魚をすくう網はない。どうする-。すると弟のワーニャが水に入って魚に近づいていった。あと少しで魚が捕えられる。と思った瞬間、あろうことか太い魚体がガフッと反転した。まだ力は残っていたのだ。プツンと糸は切れ、竿が力なく空を切った。
大魚は水中に消え、僕だけが呆然(ほうぜん)と岸に残された。セリョージャが両手をいっぱいに広げ、「ボリショーイ(でかかったなー)」と笑い転げた。
何か魂まで抜き取られてしまったようで、もう釣りをする気が起きなかった。僕は川に誘われるまま水に潜り、手に残ったタイメンの重さを感じながら川を下った。
湧き水の多いビキン川は夏も恐ろしく冷たい。倒木の下の深い水の色や川底の石、水草の魅惑的なきらめき。頭がしびれてきたのは水の冷たさのせいだけではない。浅瀬には木漏れ日が燦々(さんさん)と降り注ぎ、小さな宇宙のような空間で稚魚の群れが踊っていた。水中に生命の揺りかごを見た。(写真・文:写真家 伊藤健次/SANKEI EXPRESS)