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【逍遥の児】単機、北へ出撃した塩塚中尉

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【逍遥の児】単機、北へ出撃した塩塚中尉

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 少年の日。夏休み。わたしは父とふたりで旅をした。北九州の鉄の街、八幡を出発。列車を乗り継ぎ、三重県へ向かった。三重海軍航空隊跡地に到着した。暗く、どんよりした雲。低く流れていたことを覚えている。

 「ここで飛行訓練を受けた」

 亡き父は旧海軍中尉。搭乗員だった。息子に戦争体験を伝えようと、迫真の話をした。幼かったわたしは、懸命に聞いた。忘れられない逸話がある。

 ある基地。父は青年将校と会った。塩塚良二中尉。姓は同じ。階級も同じ。父は福岡県出身。塩塚中尉は長崎県五島列島出身だった。「先祖は同じ一族に違いない」。意気投合し、酒を酌み交わした。戦況は悪化。物資も欠乏していた。が、出撃する度、死に直面する搭乗員には特別な配慮があったようだ。酒に不自由したことはなかったという。

 1945(昭和20)年8月15日。終戦。父は本土決戦に備え、内地で待機していた。以下の話は目撃したのではなく、伝聞によるのだろう。

 塩塚中尉は「俺は敗戦を認めん」といった。愛機にガソリン(極めて貴重だった)を注入。満タンにした。白いマフラーを巻く。単機、敵を求めて出撃していった。なんたる悲壮。情景が目に浮かぶようだ。胸が熱くなった。

 今夏。調べてみた。戦争体験をまとめた「孫たちへの証言第7集」(新風書房)に塩塚機の出撃が記されていた。

 終戦翌日。8月16日午後2時15分。朝鮮半島南端の鎮海航空隊。塩塚中尉は飛び立った。いったん、上昇する。その後、超低空で飛行。別れを告げるかのように翼を振り、北に向かった。雲のなか。消えた。指揮所は慌ただしく僚機に追跡を命じた。だが、行方はわからない。まもなく、塩塚機から電信が入った。

 「我 唯今ヨリ単機デ ウラジオ艦隊攻撃ニ向ウ」

 戦争末期。ソ連軍は突如、大軍で南下してきた。弱体化していた日本軍は惨敗。民間人も悲惨な目にあった。青年将校は一矢報いようとしたのか。

 8月15日付けの遺書が見つかった。人間本来無一物ナリ。(中略)雲来タリテ雲去リ マタ還ラズー。

 覚悟の出撃だった。(塩塚保/SANKEI EXPRESS

 ■逍遥 気ままにあちこち歩き回ること。

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