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我が眼前の額縁と、ハロルド・ピンターの「背信」と 長塚圭史
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エマ(松雪泰子)とジェリー(田中哲司)は、互いに家庭を持ちながらも、午後に愛し合う関係を続けてきた。ジェリーの親友であり、エマの夫であるロバート(私)はこのことを知らずにいるのだろうか。写真は現在上演中の「背信」の一場面。ふたりの午後=2014年9月7日(篠山紀信さん撮影、提供写真)
家の中で、ちょっと周りを見回してみるだけでいい。
例えば私の目の前には額縁に入れられたポスターがあって、これはパリで夜中まで続くサーカスを見た際に、妻が貰(もら)ってきたものだ。この夜は串田和美ご一家と別のサーカス団の座長も一緒で、トルコ料理をつまみながらゆるゆると、力の入りすぎぬ踊りやアクロバットを眺めていた。確かあまりにも終わりが見えないので途中で席を立ったのだ。その隣にある沢山の小さな籐の籠を編み合わせたランプは、中国に住む建築家の友人が作ってくれたものだ。中国ではコオロギなどの虫の声を競い合うという道楽があるのだが、籠はそれ用のものだそうだ。その横に置かれた東洋柄の箱、あれはどこで手に入れたものだろう。あそこに飾った珍しい泡盛の瓶はV嬢から頂いたもの、だけどあの少し進んでいる黒い丸形の時計はいつからある? あの地中海風の水差しもいつからあるかわからない。カーテンは覚えている。この家に来たときに、まずカーテンからつけたのだから。
つまりどういうことかというと、私の周りにあるもの、その全てが、明確だったり曖昧(あいまい)だったりしながらも私の記憶を通して認識される。私は種々さまざまな記憶物に囲まれている。家はその最たるもので、現在私が座っている椅子さえも、意識さえすれば20年近い年月がざざんと流れるだけの記憶物である。いちいちそういった回想をせずに過ごしているから何ということはないが、冒頭のように一つ一つ吟味し始めると、途端に自分がいる場所がどこなのかわかってくる。
現在私は自宅のリビングにいる。ゆえにこれだけの安心感を獲得している。そう考えると他人の家に行くというのはなかなかのことだ。つまりはまったく知らない物に囲まれるということなのだ。そして当然その家に住む者はそこにある物全てを(あるいは多くを)知っている。完全に相手のテリトリーである。相手は私が何も知らないという前提の元に接し、語りかけてくる。そして私の記憶に重なり合うようなものを見せてくれるだろう。私がプレゼントしたグラスを出してくれるかもしれない。私の好きなジャンルのレコードを聴かせてくれるかもしれない。そうやって私をリラックスさせてくれる。ここが安全な場所だということを示してくれる。
そもそも相手は私の友人だ。私は彼をしっかりと記憶している。彼は親しい友人だ。多くの仕事を共にやってきて沢山の思い出がある。だからこうして訪ねて来たのだ。私は彼の子供たちと遊ぶ。彼の子供であるということが、子供たちの存在を私に近づけてくれる。子供たちにとってもそうだ。父親が私を知っている、こうして私を家に招いて笑い合っている、私を信頼しているということで警戒心を緩めて遊んでいる。子供は生きている年数が短い分、記憶は急速に蓄積される。30分遊んだだけでも同志のようになれることだってある。勿論(もちろん)忘れてしまうのもまたひどく早いものなのだが。
彼の奥さんが美味(おい)しい料理を持って来てくれる。さっき紹介されたばかりの綺麗(きれい)な奥さん。彼も奥さんもひどく照れくさそうにしている。伴侶(はんりょ)を紹介するというのは照れくさいものだ。しかし実のところ、私は彼女を知っている。そして彼女も私を知っている。私と彼女は知り合いなのだ。それもただの知り合いではない。ということを彼は知らない。子供たちも知らない。私と彼女だけが知っている。
全く馴染(なじ)みのない、私の記憶にないものだらけの物に囲まれたこの場所で、記憶体としての彼女が輝く。彼にそのことを微塵(みじん)も気取られてはならない。私は上手にやる。彼女も上手にやる。彼女のことを知らないことにして話すので、私の記憶は千々に乱れる。おそらく彼女もそうだ。しかしハッキリと言ってしまえれば、それはそれで真実となる。ねじ曲げられ、捏造(ねつぞう)された過去も、ハッキリと言ってしまえば限りなく真実に近づく。私たちは未来へ進むゆえ、過去については折り合いをつけて、記憶を薄めたり改竄(かいざん)したりなくしたり付け足したりしながら進んでゆく。こうして彼と彼女と私と子供たちは笑い合いながら夜を過ごす。そして私は知らずにいる。私と彼女の関係を、彼はハッキリ知っているということを。だとすると彼女はどこまで知っていたのだ。
ハロルド・ピンターの「背信」とは限りなくこういうようなことが続く芝居である。つまり前述したのは「背信」の設定に似せて、私が即興で作り出した架空のもので、現実の私自身にはこうした複雑な友人はいない。が、これもまた私の言い方や認識次第でいかようにも真実に近づけることができるのかもしれない。いずれにしても無数の視点がこの現在やら過去やらを作り出しており、だとしたら限りなく脆(もろ)いものではないのかということを日々痛感させられている。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS)
2014年9月15日まで、KAAT神奈川芸術劇場(大スタジオ、横浜)。9月18~30日、東京芸術劇場シアターイースト(東京)、ゴーチ・ブラザーズ(電)03・6809・7125。ほか豊橋、仙台、新潟公演あり。