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飛び石の道の先 暗闇を抜けて見つめる 長塚圭史
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稽古の後に、田んぼでリサーチをする参加メンバーたちの後ろ姿。そこで何を見ているのでしょうか(鈴木拓さん撮影、提供写真)
2015年2月、つまり半年以上先となる来年2月に仙台の地で演劇公演をすることになっていて、実はその稽古がもう先月(6月)から始まっており、始まっていると言っても月に2、3日ずつなのだけれど、それでもとにかく始まっていて、毎月仙台へと通っている。参加する俳優陣は、私の劇団仲間である中山祐一朗さんと伊達暁くん以外はすべてオーディションで選考された。予算も極めて限られた、かなり特殊な企画ゆえ、立ち上げまでに仙台を中心に各地で何度もガイダンスが開かれた。そのガイダンスを受けた人たちだけがオーディションも受けられるという形式になっていた。ちなみに仙台在住か否かは問われない。ただ稽古場のある仙台の地に自力で集まれるかどうか、それさえクリア出来れば参加可能。現実東京から参加する者たちも数人いる。要するに、かなりの意気込みの有志が集っているということなのだ。
私も鼻息の荒い若者たちと創作したことは幾度かあるが、東京から離れた地で、地元仙台演劇を長年牽引してきているベテランから、昼間は会社で働きながら演劇活動を続けている人、大学を卒業したばかりの劇団員、定年退職してやっとお芝居に向き合えると参加した人、東京の美大生、演劇部の顧問を務める高校教師、加えて私の劇団の仲間、等々、これだけバラエティーに富んだ人々と、ワークショップではなく本格的に稽古をするなんていうのは初めてのことだ。
事の発端は3年前の5月に仙台を訪れた際、何としてもあの苦境の中を、芸術と共に繋がり乗り切ろうと文字通り暗中を模索し、そしてその後確実に成果を挙げていったARC>T(Art Revival Connection TOHOKU)の事務局長であった鈴木拓くんに出会ったこと。そこから少しずつ交流を深め、その年の10月より定期的なワークショップを開催する企画を立ち上げ、その一回目を私が担当した。単体で行われるこういったワークショップも当時の私には大変に不慣れなものだったのだが、逆にそこから得たものをまた自らの創作の現場に持ち込むといったようなこともでき、私にとっても大変貴重な時間となった。
しかし私の中でも鈴木くんの中でも、一過性の歓びをぽつりぽつりと継続させるだけではなく、もうちょっと先へ進むべきではないかという思いはそれぞれにあった。けれど翌年にはまるで何事もなかったかのようにすっかりペースを取り戻した東京の喧騒に巻き込まれて私も忙しい日々に追われ、作品を仙台の劇場に持ち込むことは出来ても、深い連帯は持てずに過ごした。そんな中での鈴木くんからの提案であった。具体的に作品を創りましょう。仙台での演劇制作の在り方を変えたいです。一カ月で作るのではなく、半年、一年でもかけましょう。
一年とまではいかなかったし、当初考えていたよりも最初の数カ月のスケジュールは月に2、3日という厳しいものになったが、実際稽古場で顔をあわせた参加者の熱意は、そういった飛び石を踏むような道筋であっても、はっきりとそこに道があるということでしっかり保たれるであろうという強い自信を抱けるものであった。まさに単発のワークショップの歓びから、継続の道を仙台の地で歩み始めたのだ。
震災から3年と3カ月たって、ようやく一歩。
私が上演に選んだ作品は、真実を真実と認めることを許さず、政権闘争や醜い保身に利用しようと、日本語であることさえわからぬような言葉でわめいてでっち上げて、陰で猛権を振るう大国のイヌと化していることに気がつかないフリをして、極めて善良な一市民を見殺しにしてしまう、1952年に発表された戯曲だ。
戦争はいやです!戦争はいやです!あの子がそういえと申しました。本当に、心からそう思っているものだけがこの言葉をいってもいいと申しました。
理不尽に息子を失った母親の台詞である。
2015年2月、このお芝居が、果たして彼の地でどう響くのだろうか。(演出家 長塚圭史/撮影:フォトグラファー 鈴木拓/SANKEI EXPRESS)