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【溝への落とし物】口走りたくなる病 本谷有希子
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時間を忘れるほど見つめてしまった、アッシリアのライオン狩りの壁画。大英博物館にて=2014年5月6日、英国・首都ロンドン(本谷有希子さん撮影) 時々、“日本は世界で一番有給休暇の消化率が悪い国”だということを誰かに口走りたくなって困る。もちろん、そんなのはただの統計だと頭では分かってる。にもかかわらず、私には定期的に「ほら、やっぱり日本人の有休消化率は世界でワースト1だからさぁ…」という言葉を思わず口にしたい瞬間がやって来るのだ。
たとえば休日、私が街を歩いていて、どこかのお店の前にできる大行列を目にした時なんかが危ない。「ああいう行列って、やっぱり有休を使わないことと関係してるのかな」とぽろりとこぼれ出てしまうのだけど、相手の反応がよかったためしは、まずない。みんな、私の言いたいことがよく分からないか、伝わったとしても、そこから私の話が一切深まっていかないことに当惑して、「ねえ、あっちに新しいおそば屋ができてねえ…」とさりげなく話題を変えてしまう。仮に「で?」と訊かれても困る。統計や一般論を持ち出してしまうと、答えがすでに出てしまっている気になるから、まるでジャン!と幕引きされたように、思考がストップしてしまうのだ。
だけど、もしこれが“日本人は世界でX番目に働いている”“世界でZ番目に残業が多い”という統計ならば、どうか。「つまり、忙しいのね」「要するに日本人は真面目なんだね」で片付け、私もこの口走り病に悩まされずに済むだろう。
“有休の消化率が悪い”という事実には、もう少し独特の余白というか、「要するに…」で片付けさせるまでのあいだの時間のようなものが流れていて、そこには彼らがなぜ有休を消化できなかったのだろう、と考える自由が与えられている。「そんなことをしたらクビになるから」という答えはデータと同じで、もしかしたらこんな人も一人くらいいたのではないか、と私は考える。
その人は霞が関にあるウオーターサーバーを扱う会社の事務をしていて、歳は31歳。今年で勤続12年目になる。こないだの日曜、商店街の近くに雰囲気のいい部屋を見つけたのだけど、入居の契約書を書いている時、自分がもうずっと有休を使っていないことを思い出した。なぜだろう。
彼女の勤めている部署の同僚は穏やかな人達ばかりで、気兼ねする必要など全然ないのに。不動産屋と話している間も、なぜか気になって、もしかしたら自分が小さな頃からショートケーキの苺(いちご)をずっと最後まで取っておくのが好きなことと、この問題はすごく似ているかもしれない、と彼女は考える。いっそここらでぱあっと使ってしまおうかと思うが、実際自分がそんなことをするはずがないと本当は分かっている。彼女は苺の乗っていないショートケーキを、今まで一度も食べたことがないのだ。
今朝、いつも通勤で使っている駅の前で、街頭インタビューというものを生まれて初めて受けた。自分の答えが「消化率0%」の欄にチェックされるのを見て、彼女はそれで終わりなのかと会社に歩き出したが、追いかけて来た男は再び自分を呼び止めた。すみません、休まない理由も教えていただけませんか?
彼女は少し考えたあと、「ショートケーキの苺を取っておく種族の末裔(まつえい)だからです」と答えた。
お礼を言って彼女から離れて行った男は、角を曲がってから「無回答」の欄にチェックし、翌日アンケートを回収した会社が有休についての調査を発表した。
彼女は今も、苺を最後まで残し続けているだろう。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS)