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曖昧だけど確かに存在する自分だけの湯河原 長塚圭史

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曖昧だけど確かに存在する自分だけの湯河原 長塚圭史

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この海の向こうに、私の記憶の中ではなく、現実の湯河原があるのだ=2014年10月2日(長塚圭史さん撮影)  【続・灰色の記憶覚書】

 捏造、改竄された物語

 湯河原について考えている。

 と言って、湯河原がどんな様子なのかほとんど知らないのである。湯河原は私の幼い頃の記憶の断片と、おそらくは捏造(ねつぞう)された、改竄(かいざん)された物語によってのみ形作られている。子供の頃に何度か、あるいは何カ月か(すでにこの時点で曖昧なのだ!)滞在していたはずだ。季節は夏。これは確かだ。私はおそらく3歳か4歳ほどで、Kという女性と一緒に泳いでいた。というのは、私の母は筋金入りの金づちなので海に入るということは有り得ない。ゆえに私はKとともに、ゴムボートのような浮輪のようなもので水面を漂い、恐らくは多少泳ぎもして、しばらくして波に飲まれて、命からがら砂浜に戻って泣きわめき、海で泳ぐのが嫌いになった。という物語が出来上がっているのだが、真相はわからない。金づちの母親から見ると、私は溺れて瀕死(ひんし)のように映ったのかもわからないが、Kにしてみれば、ちょっとひっくり返っただけで、取り立てて騒ぐ程のことでもないと捉えていたのかもしれない。

 しかし私の海への恐怖心はなかなかのもので、現在でも、わざわざ眺めに出掛けることはあっても、泳ぎましょうと誘われると、ニヤニヤおびえを隠しながら、海はあんまり好かんのです、なんて誤魔化してきている。どうしてそこまで海が怖いのかと問われれば、やっぱり私は湯河原で溺れたことを思い返すのだけれど、実は金づちの母親が見た光景に脚色を施しているばかりで、真意の程は極めて疑わしいのだ。それでも溺れた物語はしっかり頭の中にインプットされてしまっているものだから、やっぱり私は湯河原の海で溺れたゆえに、海を恐れているということになるのだろう。

 湯河原の砂浜は灰色の砂浜だ。きらきらと輝く白い砂浜ではなかったはずだ。そこで私は、幼い私は、眉間にしわを寄せながら、砂遊びをしたり、ヤドカリを弄くったりしていた。母もKも、現在の私よりもずうっと若く、はつらつとしていて、ふざけては笑い転げていた。何となく私は不機嫌に砂と戯れていた。ように思う。

 ハッキリと覚えているわけでもないのだけれど、どういうわけか私にとって湯河原の砂浜は灰色以上にどんよりとくすんでいて、海水を含んで重たかった。何枚かの写真がそうした気分を思い起こすのだ。痩せていて、おしゃれをしてはしゃいでいる母とKに比べると、私は取り残されたような顔をしている。取り残されたような顔を私がしているから、母とKは笑っているのかもしれない。とにかく湯河原は、母たちの浮かれたバカンスではなく、私のためにやってきた地のように思えてならない。

 生まれて初めての洪水

 この湯河原で生まれて初めての洪水を体験する。夜だ。停電して、ろうそくの炎を眺めていた。やがて道路が冠水して、避難しなければならず、幼い私は戸板のようなものの上に乗っかったように思う。海からひとつなぎになっているような気がして恐ろしかったけれど、停電したところから、ろうそく、冠水、戸板という風景は面白く、劇画のように覚えているが、おそらくはその後いくつも見たニュースの映像が混ざってしまっていて、オリジナルの記憶が残っているのか怪しいものだ。

 何て曖昧な場所なのだろう。と思うけれど、どれどれ現実の湯河原を尋ねて真偽を確かめよう、なんてことは露程も考えない。現在の私の中にある湯河原以上に湯河原である場所は私の中で存在しない。いや、もちろん存在するのだけれど、私の灰色の湯河原は私だけのもので、ネット通信で画像検索をしてみてみたいとも思わないでいる。明るい思い出があるわけでもないけれど、極めて詩的でプライベートな場所なのだ。真実に思い出を脅かされてはいけない。何もかも確かめられる時代になったことを恐ろしいと思うとき、それは湯河原の名が近づいたときだ。10月の台風で各地が思わぬ被害に荒れる中、静岡からそのまま北上するというニュースを聞いたとき、湯河原がふうっと脳裏に近づいてきた。私はそのままぴたりと思考を止め、湯河原を遠くへ遠くへやっておいた。しかしこのまま現代に生きてゆけるだろうかということを思いながら、強風が木々をたわませるさまを見ている。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS

 ■ながつか・けいし 1975年5月9日、東京生まれ。96年、演劇プロデュースユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を結成。ロンドン留学を経て、新プロジェクト「葛河思潮社」を立ち上げた。18日(土)よりWOWOWプライムにて毎週土曜、夜10時~放送のドラマ『グーグーだって猫である』(全4話)に出演。共演は宮沢りえ他。

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