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弱者への慈悲心を育てていく 鈴木日宣
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陽が西に傾く頃、お勤めのためにお堂に入りました。そっと障子を開けてみると堂内に差し込むのびやかな黄金色の光。秋の夕暮れは人の力ではどうにも作りえない美しい色合いを醸し出します。何にも代えがたいこのひとときをもう少しだけ…、と願ってしまうのは私のわがままでしょうか。
先月起きた、全盲の女子学生がけ飛ばされてけがをしたというニュースは、まだ記憶に新しいと思います。しかしこの事件に関しツイッターなどで、被害者であるはずの彼女への心ない非難の声が上がっていたことに憤りを覚えました。私の知り合いにも盲目のクラリネット奏者がおりますが、私たち健常者にはとうてい推し量ることのできない努力をその方々は積み重ねてこられたはずです。皆さんは光が入らないように目隠しをして、つえ1本で人ごみを歩けるでしょうか。障害を持つ方々がこの世の中に「一歩」を踏み出そうとすることに、どれほどの努力と、そして勇気が必要か。相手の身になって考えればすぐに分かることです。
今回の女子学生の事件のほかにも、幼い子供や犬猫に対する虐待。老人施設や障害者施設での入所者に対する虐待。発覚し事件となり世間に知られることになりましたが、これらは氷山の一角に過ぎないといわれています。不満やイライラのはけ口として暴力や暴言を弱者にむけるなどあまりにも卑怯(ひきょう)なことであり、人として恥ずべき行為と言わねばなりません。「慎思録」(江戸時代の儒者、貝原益軒の書)の中に「禽獣(きんじゅう)は自分を愛することを知っているが他を愛することを知らない。仁(人を憐(あわれ)み生あるものを慈しみ育む心)を持たない故に礼儀や正義もないのが禽獣の道である。しかし人の道には仁あるが故に己も他も愛することができ、礼儀や正義も持つことができる。これが禽獣と人間との違いである。人に仁無く礼儀や正義がなければ禽獣と同じである」ということが書かれています。
日蓮聖人は「古(いにしえ)の賢人は人倫(人としての正しい生き方)の四徳を修せよと言われている。四徳とは、一には父母に孝あるべし。二には主に忠義あるべし。三には友に礼儀あるべし。四には自分より弱い者、劣れる者に慈悲あれということである」と仰せです。親に孝行、主に忠義、親しい友にも礼儀ということはもとより、弱者にむける慈悲心を私たちは自分の心の中にもっと育てていかなければならないと思います。
慈悲とは「慈しみ憐れむ」。また「苦を除き楽を与える」ということです。慈悲の心を持つということは「人のために貢献する慈愛の心を持つ菩薩の生命」です。日蓮聖人は「無顧(人を顧みない・自己中心)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛す。菩薩界の一分也」と、たとえ悪人であっても菩薩の心は存在しているということを仰せになっています。
人を思い遣(や)ったり優しい心遣いをしていくうちに少しずつ美しい生命に染められていくものです。仏様や菩薩様の慈悲には遠く及びませんが、私たちも慈悲の心を持ちよって、思いやりの心あふれる世の中にしていきたいものです。
≪「自分中心」だった鬼子母神の戒め≫
法華経の中で、正しい信仰をする者を護ると誓いを立てた鬼子母神。現在は安産の神様としても有名ですが、その昔は人の子供をさらっては食べてしまう恐ろしい神様だった事をご存じでしょうか。
ある日お釈迦様は鬼子母神を改心させるため、500人いる子供の中で一番かわいがっていた末っ子を連れだし隠しました。帰宅し末っ子がいない事に気づいた鬼子母神は半狂乱になってあらゆる世界を回り子供を探しましたが、どうしても見つかりません。最後にお釈迦様のもとへ行き「私の大事な子供がどこを探しても見つかりません。どうかお釈迦様の通力をもって私の子供を探して下さい」と泣きながらお願いしたのです。お釈迦様は「鬼子母よ。愛し子はここにいる。お前はたくさんの子供を持ちながら、ただ一人の子供がいなくなりそのように泣き悲しんでいる。しかしお前がさらって食べていたのは、その親にとって唯一人の子供であった者もいよう。その悲しみは如何ばかりであろうか」と静かにお諭しになりました。鬼子母神はようやく他人の親の思いと自分の犯した罪の深さを知り、心から改心したのです。
自分の身の上に起こって初めて大切なものに気づかされるということがあります。私たちも鬼子母神のように「自分中心」の心を改め、常に自分の身に当てはめて考え、相手を思い遣る心を育てて参りましょう。(尼僧 鈴木日宣/SANKEI EXPRESS)
7年間社会人を経験したあと内田日正氏を師として26歳で出家。日蓮宗系の尼僧となる。現在は千葉県にある寺院に在住し、人間界と自然界の間に身をおきながら修行中。