SankeiBiz for mobile

【続・灰色の記憶覚書】散歩する帰郷 長塚圭史

ニュースカテゴリ:EX CONTENTSのエンタメ

【続・灰色の記憶覚書】散歩する帰郷 長塚圭史

更新

「ふるさと」を思うとき、なぜか夕暮れの光景を思い浮かべてしまうような。あんまり暮れると照れくさいので、夕暮れの少し前=2014年10月21日(長塚圭史さん撮影)  真船豊の代表作『鼬(いたち)』の演出をしていると「ふるさと」というものについて思いがめぐる。時代の好機を運良くつかみ成り上がった主人公おとり(鈴木京香)も、亭主が刑務所入りして途方に暮れる2児の母でもある酒乱のおしま(江口のりこ)も、3年前に南洋に出稼ぎに行ったまま便りの一つもよこせなかったお人よしの万三郎(高橋克実)も、誰もがみんな「ふるさと」へ吸い寄せられてくる。

 「ふるさと」へ引き寄せられる人々の話だからといって、お涙頂戴のメロドラマ要素は欠片もない。どす黒い欲望だらけの人々ばかり出て来る異様な芝居である。「ふるさと」へ帰ってくる者たちと、「ふるさと」で暮らし続ける人々の生命力がぶつかりあう。なのでこの劇においては、残念ながら「ふるさと」はやさしく抱きしめてくれるようなぬくぬくとした場所ではない。東北の辺境の寒村で、世間体を気にするあまりにビクビクしながら、それでいて金目のものにハエのように群がる連中ばかりのいる「ふるさと」。それでも村を捨てた者たちは、成功不成功にかかわらず、どういうわけだか戻ってくるのだ。

 子供の頃に覚えた道

 東京出身の私の「ふるさと」は、具体的には消失してしまっている。幼少時代を過ごした奥沢の家は既にない。西荻窪の善福寺川のすぐ傍にあった母方の古い家もなくしてしまった。ではもはや私は「ふるさと」を持たないのか。これが案外そうでもなく、実は私はちょこちょこ帰郷している。父や母という人物を「ふるさと」にしているのではない。そうではなくて、これはどういうわけだか知れないのだけれど、幼稚園から小学校までを過ごした渋谷区の一角が私の郷愁を強烈に誘うのだ。私は時にリラックスを求め、時にセンチメンタルを求め、時にほとんど意味もなく、その界隈(かいわい)をぐるぐると歩き回る。家なき「ふるさと」を闊歩(かっぽ)する。これが私の帰郷である。

 一つには匂いがある。私の「ふるさと」の中心はかなり寂れてしまった商店街の裏道で、その通りは今でも幼少期とまるで同じ匂いを放つ。ような気がしている。くんくんと嗅ぎに行くのではない。ただ歩いているとふわりと懐かしい気持ちになる。それが本当に匂ったからなのかどうかは問題ではないだろう。もう一つにはやはりよく道を知っているということがある。大人の私が覚えたのではない。子供の私が覚えた道なのだ。誰それ君の家と誰それさんの家の脇を入ると誰それ君の家の前を通って八百屋に出る。この狭い区域が幼少の私にとっての世界全部だったのだ。

 捉えて放さぬ磁力

 帰郷していて道に迷うこともある。決して大きい区画ではないのだけれど、子供の頃に足を踏み入れなかった道に来ると、突然方向を見失ってしまう。子供の頃に用事のなかった通りは、現在の私にとっては「ふるさと」のすぐ後ろに隠れた未知の領域だ。私はそうした知らなかった「ふるさと」も愛してしまう。むしろ、どうしてここへは来なかったのだろうかということを考えながら、ニヤニヤと繰り返し歩いてしまうのだ。

 「ふるさと」に暮らそうかと考えないこともない。現在まで残っている当時の面影を失わないように、より鮮明に記憶しておくためにも生活をここへ移してみようか。しかしそれはそれで帰郷できなくなってしまうという問題が生じる。私はこの曖昧な帰郷がこよなく好きなのだから、特別な場所での特別な時間を奪われてしまうような気もしてしまうのだ。それでいて「ふるさと」で家など売り出されているとついのぞき込んでしまう。「ふるさと」には私を捉えて放さぬ磁力がある。

 親類やかつてのなじみのいない場所を「ふるさと」と称して散歩することを帰郷とするのは、狂気とまではゆかないまでも、妄想のようなたぐいのものではないかと自分でも思わないでもない。そこに今も息づく人々なしの「ふるさと」では、「ふるさと」から離れた私の視点も立場も浮かび上がらず、本当の帰郷にはならないのではないかと。けれど、かの地へ参ると、幼少期の私が小道から駆け抜けていく後ろ姿を見るような気がして、こうして現在までどうにかこうにか生きている自分の肉体を愛しく思えるようで、やっぱり私の「ふるさと」はここで、この散歩めいた帰郷はこれからも私を支えてくれるのだろうと信じてしまうのだ。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS

 ■ながつか・けいし 1975年5月9日、東京生まれ。96年、演劇プロデュースユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を結成。ロンドン留学を経て、新プロジェクト「葛河思潮社」を立ち上げた。演出を務めるシス・カンパニー公演『鼬』が12月1日~28日、世田谷パブリックシアターにて上演。出演は鈴木京香、白石加代子、高橋克実ほか。

ランキング