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どこまでも終わらぬミックスと逆転 町田康
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(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人、詩を読んで気色がよいなあ、と思うことがあまりない。ときどきはあるのだけれども、ほとんどない。
なぜかというと一編の詩には必ずなにかが籠められているからである。もちろん、なにかが籠められているのがよくないわけではないのだが、その籠まっているなにか、が、なにかなのでよくわからないのだけれども、その方向性というか、全体の色合いというか声調というか、そういうものが読んでいると重苦しくのしかかってきて苦しいのである。
だから籠まっていてもよいのだけれども、もう少し違う方向性のものが籠まっているならば詩という形自体はよいものなのでよいのではないかなあ、と思うのだけれども、実際にやってみるとなかなかそうもいかぬのだろうなあ、とも思う。
けれども石牟礼道子(いしむれ・みちこ)の『祖(おや)さまの草の邑(むら)』を読んだら、籠まっているものがぜんぜん違って気色がよく、自分の手足を簡単にばさっとちぎって棄てて、どばどば血を流しながら愉快に笑い、あたりの景色をキョロキョロ見渡して、野の花が咲き雑草の茂る土手道を漫歩するなどしているような気分になった。
なぜ自分がそうなるのかというと、星の数ほどの理由があって、それらが発光したり爆発したりしながら互いに影響してそんなことになっているため簡明には言えぬのだけれども、それを無理矢理にひとつのことにして言えば、それはミックスと逆転で、それがどこまで行っても終わらず起こって、絶望をきわめることによって見えてくる花を拝み、奉る。けれどもそれ自体、絶望的なこと。絶望そのもの。といったようなことで、また、海のものが山に行き、山のものが海に行く。天空におらっしゃる神様が海底に遷り、海底からは昇天する、ということが激しく繰り返される、なんてことも起こるからであると思う。
そいで、わたし、ということもあると思う。私というものはひとつの時間の流れのなかにいて、そこから動かずに自然や世界を眺めて、いろんなことを言葉に籠めていくが、ここでのわたしはひとつの時間のなかにおらない、祖さま、たちの時間も、いま現在、同時にここにあって、というと、すぐにDNAとかいう人がいて読み狂人、すっげえ嫌なんだけれどもそうではなく、祖さまというものはもっと範囲の広い、海とか山とか草とか貝とか蚯蚓(みみず)とかそういったものも全部、含んだものでそうしたものの記憶や感覚を悼む気持ちが凝って花や詞章になっていくので、ぐわあ、ええのう、と思って、別に刀とかも要らぬ、片手で髪の毛を持ってぐっと引っ張ったら自分の首も思いの外、簡単に外れて、これを崖から投げて、おおおっ、おもしろき映像だ。ゴープロなんていらねぇぜ。と笑いながら地面に落ちて、ベチャ、と潰れてなお笑うことができるのである。
現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡の世を待つのみか ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す
と祈ることができるのである。読み狂人は痺れてここから動けない。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)