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多忙のなかでも心穏やかに 鈴木日宣
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日蓮宗系の尼僧、鈴木日宣(すずき・にっせん)さん=2014年、千葉県内
街中に飾られたイルミネーション。街路樹もお店も色とりどりの光に包まれ、街は一年で一番きらびやかな時季を迎えています。その美しさはため息が漏れるほどですが、でも私はどちらかといえば煌々(こうこう)と輝くお月様と、きらきらとまたたく星空のほうが好き。透明度を増す夜空は天然のプラネタリウム。見上げながら吐く息は漆黒の空に吸い込まれていく。手足も凍りそうな寒さですが幸せを感じるひとときでもあります。
師走は「師匠の僧が経をあげるために馳(はせ)る」という「師馳す(しはす)」が語源といわれています。私の住する寺院では12月に師匠が走り回るほどのお経回りはありませんが、それでも皆さまと同じように多忙な時期であることには変わりありません。
人は多忙になると些細(ささい)なことでイライラとしてしまうことが多いものです。普段はあまり気にも留めないようなことでも他人の言動についカチンとしてしまう。サークルや仕事場において、忙しいからこそみんなで力を合わせなければならない時期に限ってイライラとしては人間関係がぎくしゃくとしてしまう。人間関係は家庭でも学校でも会社でも、なにより大切なもの。人間同士の歯車がかみ合わないとすべてがうまくいかなくなります。
聖徳太子の作られた十七条憲法の「和を以て貴しとなす」の言葉はあまりにも有名ですね。第一条には「人と人の和をなによりも大切にし、いさかいを起こさないことを根本としなさい。人は集まり仲間をつくる、そこに集まるのは決して人格者ばかりではない。君主や父親の言うことに従わなかったり、近所付き合いがうまくいかない者もあろう。しかし上司は心穏やかに、部下は親睦の心をもって論議するならばおのずからものごとは道理にかない、どんなことも成し得るものである」ということが述べられています。また第十条には「人の言動に対して怒りの心を持ってはならない。自分は必ず聖人ではないし、相手は必ず愚人ではない。お互い凡夫なのだ」との言葉もあります。
私の師匠は「人間は人様のことはよく目につき悪口を言う。人の間違いは許そうとしないが自分の間違いに対しては寛大ですぐに許してしまう。人様の批判をしているヒマがあるなら、まず自分自身を正すことが大事だ」と口癖のように仰せになります。聖徳太子のお言葉のように「世の中にはさまざまな人がいる。自分も決して聖人君子ではない。お互い凡夫であって長所も短所もあるのだ」という視点にたって考えていくことが「和」を保つ秘訣(ひけつ)なのではないでしょうか。
足早に通り過ぎ行く日々に、ふと気づけば今年もひと月足らず。「今今と 今という間に今ぞ無く 今という間に今ぞ過ぎゆく」という道歌(道徳的、教訓的な短歌)がありますが、「今」と言っている間に「過去」になっていく時間を誰も止めることはできません。忙しい日々となりそうですが「忙」という漢字は「心を亡くす」と書きます。忙しいと優しい心、温かな心、思いやりの心を忘れてしまいがちです。多忙のなかにも穏やかな心を忘れずに新たな年を迎えましょう。
≪日々の「当たり前」に感謝を≫
親御さんと一緒に暮らしている若い方も多いことと思いますが、ご飯、掃除、洗濯、お風呂など、親にしてもらうことが「当たり前」だと思っていませんか。既婚の男性もまた然り、奥様が身の回りのことをしてくれるのを「当たり前」だと思っていませんか。また奥様は旦那様が家族を養うために働いていることを「当たり前」だと思っていませんか。人はずっと同じ環境に身を置いていると、いつしかその環境が「当たり前」のものと思い、ふつふつと湧き起こるお互いの不平不満により「和」が崩れてしまうことがあります。「ありがたい」という気持ちを忘れているのが「当たり前」という状態です。「和」とは、感謝しその恩に報いていくことで培われるものではないでしょうか。
寒い朝、お日様の光が差してくるとその温かさに心からほっと致します。そしてごく自然に「お日様ってありがたいな」と「感謝の心」が湧いてきます。「平和を願い平静に物事を判断する生命状態」が人間界です。そんな「当たり前」と思うことに対して「感謝の心」を持つことが本来の人間の姿といえるのではないでしょうか。
人は互いに支え合い助け合って生きています。身近な人たちに「ありがとう」との感謝の言葉をもって、ぜひ一年を締めくくっていただきたいと思います。(尼僧 鈴木日宣/SANKEI EXPRESS)
7年間社会人を経験したあと内田日正氏を師として26歳で出家。日蓮宗系の尼僧となる。現在は千葉県にある寺院に在住し、人間界と自然界の間に身をおきながら修行中。