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自分の中にいるたくさんの他者 「夜の木の下で」著者 湯本香樹実さん
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「夜の木の下で」(湯本香樹実著/新潮社、1300円+税、提供写真)
累計160万部の名作『夏の庭-The Friends-』で知られる作家、湯本香樹実(かずみ)さんが作品集『夜の木の下で』を刊行した。少年少女時代の記憶と「いま」が交錯する短編6編が収録されている。
収録作品は1996年頃から2014年までにかけて執筆されたが、まるで書き下ろし作品のような共通したトーンを持つ。「以前の作品を大幅に書き改めたんです。当時はできなかったことをできて、とても幸せです」
それは、自身の短編との向き合い方の変化に根ざしているという。「長い作品を書くときは、自分もその世界の中へと潜り込んで一緒に進んでいく。でも、そのやり方だと短編では破綻してしまう。じゃあ、どういう視点を持てばいいのか、と悩んでいました。けれど、ここ10年ぐらいで『時間』というもののとらえ方が自分の中で変わってきたんです。目の前の瞬間瞬間ではなく、時間の積み重ね、つまり時間の『層』の中を生きているのではないかと」
時間の『層』を生きるとは?
「一直線に過去から未来へと向かう時間軸の中に私たちは立っているけれど、一人一人の心の中には、その人が経験してきた時間がすべてひとしく存在している。それが心のありようなのではないか。短編も同じで、短いけれど、豊かな時間をはらんでいると思うのです」
現在はトロントで教鞭(きょうべん)を取る「私」が、病弱な双子の弟と過ごした秘密の場所へと思いをはせる「緑の洞窟」。ミッション系の女子高に通うユリが、生理用品を燃やす焼却炉の前で、同級生のカナと将来の夢や自身の家庭環境などを語り合う「焼却炉」。少年と不思議な女性との奇妙な友情を描いた「マジックフルート」。淡い、けれども鮮やかな思い出が美しい筆致で描かれる。
「どれも、名付けられない関係や感情です。『焼却炉』のユリとカナも特別な親友というわけではないけれど、その関係が確実に今の自分に影響を与えている。小さいけれど運命の別れ道です。そういうちょっとしたふれあいが、少しずつ導いていく感じ」
淡々とした日常の積み重ねだけではなく、自転車のサドルが話しかけてきたり(「私のサドル」)、非日常がごく自然に存在する作品も。「そうしたささいな非日常っていっぱいあるよね、という気持ちが私の中にある。少年少女のころ、自分の身近な持ち物に話しかけていたな、とか。これはこういうこと、とレッテル付けをしたくないんです」
その姿勢があるからこそ、“過去”を“今”と線引きすることなく、香りや色合いもそのままに、登場人物、そして読み手の前に出現させることができる。
「かつての出来事を、現在の立場からジャッジするようなことは、すごく物事を狭めて貧しくしてしまうような気がして。それよりは、その中から豊かさを見いだしていきたい」
『夏の庭』の刊行から20年以上。小説はもちろん、絵本などにも活躍の幅を広げてきた。「昔はあいまいなこと、答えが出ないことに答えを出そう、なんとかつかまえてやろうとしていた。もちろんそれは必要なことなのだけれど、今はあいまいなことがあるから豊かなのだと思えるようになってきました。あいまいなものと、くっきりしたもの。そのバランスがその人のありようを決めていくのかもしれません」
今作では短編の楽しみを改めて思い起こさせられたという。「また短編書きたいな、と思っています。非常にささやかだったり、名付けられることのないふれあいなどを描いていきたい」
心の奥底に眠っていたあの日の思い出、ささやかだけれど大切な人たちがよみがえる。
「自分の中にたくさんいる他者が自分を成り立たせているし、私もまた、誰かを支えているかもしれない。そう思うとがんばれますよね。もし、これを読んでいただいて、自分の記憶の中のそういうひっそりした関係性とか、出来事なりが呼び起こされたとしたら、作者として、これほどうれしいことはありません」
読み終えればなつかしい友の声を聞きたくなる、そんな作品だ。(塩塚夢/SANKEI EXPRESS)
「夜の木の下で」(湯本香樹実著/新潮社、1300円+税)