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【木村英輝さん 生命を描く】(4-3) 「もっと面白いこと」 根底にロック
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壁画のモチーフは依頼者と相談した上で決める。こちらは店の名から椿の花を描いた=2014年9月20日、埼玉県川越市の和雑貨店「川越椿の蔵」(田中幸美撮影) ≪「描けるものを描こう」 人生映す≫
大阪府泉大津市出身のキーヤンは、京都市立美術大(現在の京都市立芸術大)図案科を卒業後、母校の講師をしていた。ときは1970年安保前夜、世の中には学生運動の嵐が吹き荒れていた。「絵や音楽をするモンが右や左や言っとらんで、ど真ん中のクリエーティブな活動で勝負せなあかん」と考えた。
1969年、京都会館に1500人を集めたコンサート「TOO MUCH」は日本初のロックイベントといわれ、それを皮切りにプロデューサー業に専念した。「カッコええヤツが集まらなあかん」との発想から、京大西部講堂で開かれた「MOJO WEST」コンサートや、米国の反骨ロッカー、フランク・ザッパの公演などをプロデュースした。「日本でロックフェスティバルのわかる唯一の男」として海外にもその名はとどろき、海外の有名ミュージシャンの指名を受けるほどの伝説的なプロデューサーだった。
一方で音楽プロデュースの仕事をしながらも、美大時代に触れたアンディ・ウォーホル(1928~87年)をはじめとするポップアートや、マルセル・デュシャン(1887~1968年)に代表されるコンセプチュアルアートなどの先端アートへの興味は持ち続けていた。腰を落ち着けて絵を描く時間こそなかったが、イベントのポスターやチラシをササッと描き上げてしまう多才なプロデューサーだった。
そんなキーヤンがなぜ還暦を前に絵を本格的に描き始めたのか。
他人を盛り上げる裏方の仕事を40年近く続け、どこか踏み切れずにいた。
お金もうけをしてこそ「プロフェッショナル」といわれる日本の風潮にも違和感があった。
そして、なにより「先端アートの人たちよりもっと面白いことをやれる」という自負がずっと内面にあった。
しかし、アートの世界に身を置く友人を見渡すと、純粋なアートだと言いながら誰もやってないことを探す「アイデア探し」に躍起になっていることに気付き、「ものすごいイヤやった」。そんなアートの世界に身を投じたくないと思う一方、「逃げたくない。挑みたい」とも思った。
そして、出した結論が「描けるものを描こう」だった。描きたいものを描くことは、あふれるアートの情報から選別するだけの作業に過ぎず、「自分の人生が、そのまま出るものとは違う」と思った。
描けるものを描こう、と心に決め、最初にスケッチしたのはサイだ。美大時代の教え子が開設した事務所の壁面にサイの家族を描いた。金の縁取りをして、ショッキングピンクに塗るつもりだったが、試しにまずワインレッドで下塗りしてからピンクを上塗りすることにした。
すると、ワインレッドのサイを見た友人らがみな口をそろえて「カッコええなあ」と褒めちぎった。元来褒められることが嫌いではないキーヤンは、ワインレッドのサイに陰影をつけ、記念すべき処女作を完成させた。これが現在の壁画のスタイルの原型になった。
絵を描くのにイメージはいらないという。手と体で描いて現実にぶち当たって解決する。「すべて成り行きや」。それがキーヤン流の生き方でもある。(田中幸美(さちみ)、写真も/SANKEI EXPRESS)