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作品に生き続ける 青春の輝き、苦悩 難波田史男の世界 イメージの冒険

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作品に生き続ける 青春の輝き、苦悩 難波田史男の世界 イメージの冒険

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難波田史男「イワンの馬鹿」(12点組)1964年(世田谷美術館蔵、提供写真)  【アートクルーズ】

 32歳でこの世を去った画家、難波田史男(1941~74年)を振り返る「難波田史男の世界~イメージの冒険」が、世田谷美術館(東京都世田谷区)で開かれている。空想に弾む初期の作品から、自立への懊悩(おうのう)をうかがわせる死の直前の作品まで約300点を展示。駆け抜けた“青春”の実像が、豊かな表現とともに浮かび上がってくる。

 すでに著名な画家だった難波田龍起(1905~97年)の次男として育った史男は、早稲田大学高等学院に進むが、読書にのめり込む。卒業は何とかしたが、大学進学を断念。文化学院美術科でデッサンなどを学んだがなじめず、2年で中退した。兄と弟を家庭教師に早稲田大第一文学部美術専修科に入学して、主に美術理論を学んだ。

 19歳ごろから描き始めた初期の絵の特徴は「イワンの馬鹿」に代表されるように、多くの色彩が躍り、わき出るイメージが宇宙の果てまでも、とめどなく連なる表現だ。イワンの馬鹿もそうだが、とくに初期は「現代の巻き物をつくる」という意気込みで描き、11枚組、12枚組、長さ6~7メートルの大作を描いた。

 しかし大学生活は史男に、青春特有の陰りをもたらした。66年に描かれた「無題」では、キャンパスらしき建物の上に、輝くというより、黒々と空いた穴のような太陽が浮かんでいる。

 絵の余白には、詩なのか、「太陽をみていたら/エレキの音がきこえてきた/早稲田レデイのハイヒールの音/早稲田マンのスクラムの音/太陽とエレキの街、ワセダでも(orデモ)/スモッグとタバコの煙の彼方で/太陽はひとりぼっちだった/もう、ぼくには、小学生の時、/描いた太陽(太陽の絵)は/描けない」と記されている。

 とくにこの年、大学紛争が激化し、学生間の対立を前にして史男は懊悩し、精神のバランスを崩した。このころから、絵の色調は暗さを帯び、内面の心象風景を描くように抽象性を増して、30~40センチの小品が中心になっていく。

 尋常でない集中力

 史男の日記や手記を掲載した「終着駅は宇宙ステーション」(2008年、幻戯書房)の中で68~69年ごろ、たびたび登場するのが、芸術を趣味として楽しむという意味の「ディレッタンチスム」という言葉。「ディレッタンチスムとは青春時代特有の詩情である。(中略)完成をみることなく、未完の美しい夢の舞に終わる一種の絶望感であろう」

 周りの学生が社会に出る前の羽ばたきを始めているのを見ながら史男も、絵描きを職業とするのか、絵を通して社会に何を発信するのか、決断を迫られていたはずだ。亡くなる1年前の73年に描かれた「青年」には、黒い影が中心と周囲に現れ、将来への不安や苦悩、孤独感がにじんでいるようだ。

 73年には300点を描くという多作さだった。「没入ぶりは尋常でなく、消耗するような集中だった」(杉山悦子企画担当課長)。心に浮かぶ空想を自由に描き続けてきた史男は、社会の風潮に背を向け、自分だけの「純粋な世界」を守ろうと、必死に闘っていたのかもしれない。

 史男は74年1月29日、九州旅行の帰りのフェリーから海に転落、この世を去った。事故か自殺かは不明だが、32年の短い人生は突然、断ち切られた。青春の輝きも苦悩も、15年足らずで2000点以上も描かれた作品に封じ込められた。

 史男は68~69年ごろ「不条理の最高の喜びは創造である。この世界に於いては、作品の創造だけがその人間の意識を保ち、その人間のさまざまな冒険を定着する唯一の機会である。創造すること、それは二度生きることである」と書いた。史男は、作品の中で二度生きている。(原圭介/SANKEI EXPRESS

 【ガイド】

 ■「難波田史男の世界 イメージの冒険」 2015年2月8日まで、世田谷美術館(東京都世田谷区砧公園1の2)。一般1000円。休館は月曜(ただし2015年1月12日は開館)と年末年始2014年12月29日~2015年1月3日、1月13日。(電)03・5777・8600。

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