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原点「存在しないもの」 変化した新作たち 小谷元彦展 椹木野衣
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【小谷元彦展】「Terminal_Impact」(featuring_Mari_Katayama”tools”)2014年_サウンド:西原尚さん(表恒匡さん撮影、提供写真)
2010年に東京・六本木の森美術館での開催を皮切りに、日本全国を巡回した大型回顧展「幽体の知覚」以降、小谷元彦(おだに・もとひこ)による久しぶりの新作展が京都で開かれている。会場となる京都芸術センターは、1993(平成5)年に閉校となった明倫小学校の校舎を再利用した施設。現代美術の展示室はもちろん、伝統芸能やワークショップルームでのプログラムからカフェまでを備える。さしずめ、前回にこの連載で紹介し、やはり廃校跡地を再利用する東京の複合文化施設、3331アーツ千代田に対する西のライバルといったところだろうか。
先の回顧展以降、実は小谷は新作になかなか手がつかない時期が続いていた。美術家としての集大成を済ませたからではない。翌年に起きた東日本大震災の衝撃から、「作品」への信頼が揺らいでしまっていたのだ。物質と格闘し、長く後代まで作品を残そうとする彫刻家であるなら、なおさらだろう。
小谷がようやく新しい制作に着手できるようになったのは、その後、9カ月間に及ぶニューヨークへの滞在を経た帰国後のことである。きっかけは、台湾のギャラリーから届いた、すべて新作からなる大型の個展の依頼だった。この企画に向き合うにあたって、小谷は自分の原点に戻ることを試みた。かれの最初の展覧会は、恵比寿にあった1階がカフェになっている木造の小さな併設ギャラリーで開かれた。が、そのときに発表した「ファントム・リム」は、今日に至るまで一貫して小谷の創作の芯をなす代表作であり続けている。
「ファントム・リム」とは、しばしば「幻影肢」と訳される。病気や事故でやむなく四肢を切断した際に、存在しないのに手足があるかのように感じる幻の知覚のことを指す。小谷は幼いころから、こうした幻影をめぐる話に多大な関心を寄せてきた。彫刻家としてのかれの興味も、その延長線上にある。が、実際には存在しないのだから、物質を素材とする彫刻には適さない。せいぜい、文学で表現するのが関の山だろう。だが、自分のデビューを飾るにあたって、小谷はあえて、この難しい主題を選んだのだった。
そのときに制作した「ファントム・リム」に、小谷は震災後もう一度、挑むことで、作家として再出発しうる地点を探そうとしたのだろう。が、同作はもともと少女をモデルとする写真作品である。当時の人物はすでに成長してしまっていて使えない。小谷は新たに別の少女を選び、モチーフはまったく同一ながら、少しだけ心境の変化をそこに施した。初作のときは完全にコントロールしたポーズや表情の指定を、本人のなすがままにまかせたのである。
執拗(しつよう)なまでの完璧主義者で知られる小谷にとって、これは大きな変化だ。ぱっと見にはわからないかもしれない。が、そこには制御不能な「なにか」を許容する心の表れがあった。震災という人智を遥(はる)かに超える出来事を経ることがなかったら、小谷はきっと、そんなことには頓着せず、前と同じことを繰り返していたかもしれない。言い換えれば、震災のあとでは偶然や制御することの難しさを取り込まない限り、もう作り続けることなどできない自分に気付いたのだろう。
あとはもう、堰(せき)を切って水があふれ出すように新作ができていった。台湾での個展はこうして、過去の小谷の履歴のなかでも、もっとも旺盛な制作の時期を記録するものとなった。そこには、炎や水、割れやすいガラスや風圧といった、本来なら造形には適さない、物質とも現象ともつかぬ素材がふんだんに投入されている。
「断絶の円環」展の名のもと、2013年に台湾で発表されたこれら一連の作品は、残念なことに日本ではすべて未発表である。だから、「幽体の知覚」展を見た者が突然、今回の「ターミナル・モーメント」展に接したとき、微妙だが確実なその変化を前に、多少なりとも戸惑うかもしれない。が、震災前の2010年の小谷と2014年現在のかれとのあいだに「断絶の円環」を挟むことで、両者は意外なほどスムーズに繋(つな)がるのである。
今回の展示のうち最大の見ものは、本展のために一から作られた最新作「ターミナル・インパクト」だろう。ターミナル・インパクトとは「ファントム・リム」ときわめて密接な関係にある。それは、足を切断したものが義足を装着して歩くとき、地面から伝わる本人にしかわからないわずかの衝撃のことを指す。
このような存在するかしないかの微妙な知覚現象を扱うにあたり、小谷は、幼い頃に先天性の障害から両足を切断した美術家、片山真理に協力を依頼する。そして片山が、小谷の作った舞台装置とも彫刻の台座ともつかない奇妙なからくり細工を仕込んだ渡り板を、義足でゆっくりと歩く様を撮影し、編集を施したうえで、三面のスクリーンに投影する映像が主をなす作品に仕立てたのである。
そこには、小谷ならではの自然観、つまり欠損が欠落ではなく「幽体」の補填(ほてん)であることや、日本の人体彫刻が「人形」との境界線上にあることからくる独自の彫刻観が、かつてなく豊穣(ほうじょう)に畳み込まれている。(多摩美術大学教授 椹木野衣(さわらぎ・のい)/SANKEI EXPRESS)