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免許証を持たない私が助手席から思うこと 長塚圭史
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新年2日のフジヤマ。こういう景色に見惚れる運転者にも、私は小うるさいのかもしれません=2015年1月2日(長塚圭史さん撮影)
運転免許証を持たない私は、いつだって当然の如く助手席に陣取るばかりで、正月ともなると、どこそこへあいさつなどという際にも、何を気にすることもなく、酒を飲めて幸せである。かといって、あんまりふんぞり返っていては、運転をしてくれている妻に悪いので、ありがとうありがとう、と感謝の気持ちは忘れない。
感謝しようがしまいが免許証を持たないのであるから、それなら運転免許証を取得しなさいという話にはもちろん幾度となくなるのだけれど、四十路を目前に、まとまった時間を作って合宿というのも難しいというか、照れくさいような気もしてしまって、決断ままならないし、教習所に通うというのも、ずぼらな私が上手に継続できるとは信じ難い。
それよりも、私にはもっと切実な思いと言うか、考えがあって、そもそもああした鉄の塊が大きな顔をして町内を走り巡っていることに対する不信感、例えばガードレールのこちら側(無免許の私がガードレールのこちら側と言う場合は歩行者側)を闊歩(かっぽ)していても、向こうから道にそぐわぬ大型車などが、法定速度ギリギリの様子でやってきた際には、さっと飛び退くにはどちらへ飛び退くべきかというようなことを瞬時、思い浮かべてしまう。
運転者からしてみればばかげた妄想だと一笑してしまうことであろうが、歩行者にとっては切実。運転者の日々の生活など一切知らぬ歩行者にとっては、運転者が失恋で荒れているとか、プレゼンを前に寝不足だとか、家族の問題で落ち込んでいるとか、危険ドラッグをキメていてハイだとか、そういった諸々は全く他所事なのだ。
凶器にもなりうる殺傷力のある鉄の塊に乗っているということ。ルールを守りながらの巨大鉄製車所持ということで、目的は移動であるけれど、凶器になるという点においては刀とそう変わらない。一撃必殺という意味では車の方が強烈であるとも考えられる(刀も達人の手に掛かれば一撃であろうが)。
車社会の否定なんぞという前時代的な考えに取りつかれているわけではない。そもそも、他者を信用するということ自体、隣人の顔も見知らぬ現代においてはそれなりに困難ゆえ、交通標識の下に鉄の塊同士でルールを守りましょうねということが私には不可能に思えて仕方がない。要するに、こうした妄信のある私のような人物は運転免許証など取得すると、警戒が過ぎて交通渋滞ないしは事故を巻き起こしかねないので甚だ迷惑である、と自ら不適正と見なしたのである。
助手席に陣取る私は、信号の点滅、突然に飛び出す人、自己中心的な自転車、不審な黒車などに一喜一憂して騒がしいことこの上ないのだけれど、熟練の運転者である妻は、そんな私の喧々にもどこ吹く風で悠々閑閑にすいすいと流していく。私はそれこそがお役目、と目を光らせるものの、コトコト静かに揺れる助手席の甘い座り心地に酒の巡りも良くなって、やがてまぶたがとろりと落ちてウトウト。
助手席にできることとは運転者を眠らせぬことであって、それこそが乗せていただいている恩義であり、忠節であって、居眠りなんぞは言語道断、不義不忠の狼藉(ろうぜき)である、などとは決して言わぬ妻。毎度助手席に乗り込む度、妻が運転に退屈せぬようにと、盛り上がり過ぎず、眠くなり過ぎずの音楽を持ち込んで乗用車に記憶させる(そういう機能が現代の乗用車には内蔵されている)。
今年の正月はPRINCEの新作『ART OFFICIAL AGE』と今話題のFKA twigsの『LP1』、それとひいきにしているTHE FLAMING LIPSがTHE BEATLESの『SGT.PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND』を仲間たちとサイケデリックにカバーしたアルバムを持ち込んだ。幸いどれも喜ばれたのだが、3番目のサイケは奇抜が過ぎるので、運転もサイケに奇抜となっちゃあいけないと冷や冷やしている。
PRINCEの新譜は、もともとこれまで聴いてこなかった私にも楽しく、遊び心も満載で、間の抜けたようなビーム光線のような音も、作り手の信念が、間抜けさえも格好良くする力があるのだなあと感心。自動車の運転も、他者を信用するとかしないとかそういったへ理屈ではなく、移動の道具なのである、と真っすぐ信じ込めれば、私のようにビクビク御託を並べずに気持ちよく町内を走り回れるのであろう。それはそれで、ひどく羨(うらや)ましかったりもする厄介者である。(演出家 長塚圭史、写真も/SANKEI EXPRESS)