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真意求め思考が回りだす しりあがり寿「絵画のぞんざいな回転について」 椹木野衣
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マンガ家のしりあがり寿が毎年、京橋にある小さな画廊で個展を開く美術家でもあることを、どれくらいの人が知っているだろう。案外、知られているのかもしれない。しかし職業柄、私などには美術家としてのしりあがり寿のほうが、マンガ家としての彼よりも、はるかに馴染み深い存在となっている。
私はこの恒例の展覧会を、いつもハガキのダイレクトメールで知る。マンガ界の巨匠だからといって、立派なものではない。美大を出たばかりの画家の卵が初めて出す個展の案内と、なんのちがいもない。でも、そこがおもしろい。
それにしてもお堅いタイトルだ。なにしろ「絵画の存在とその展開について」と来た。宛名を裏返すと、マチスを思わせる室内の壺が描かれている。凡庸だ。具体的なコメントはいっさいない。これではわけがわからないので、作家自身のホームページを当たってみた。すると、そこにはこう書いてあった-「毎年恒例となった京橋ASK? での今回の個展は『絵画の存在とその展開について』というカタイ題名がつけられました。その意図とは……? その真意を確かめに、是非お越しいただければ幸いです」と。
そんなことを言われれば、美術批評家としてはぜひとも「真意」を確かめたくなるではないか。というわけで先日、早速足を運んできた。そのときの会場の様子は、いま紙面にレイアウトされているとおりだ。みなさん、その真意について、どう思いますか?
だが真意など、私が訪れた時点で、もうとっくに失われていたのかもしれない。というのも、入り口に貼られていたハガキのうえから、本人の手でタイトルに×が引かれ、代わって「ぞんざいな回転」と書かれていたからだ。つまり本展は、案内のハガキを出し終えてからタイトルが変わってしまったという、きわめて稀(まれ)な展覧会なのだ。
私は考えた。これは意図的なものなのか。それとも不本意な変更なのか。もしも前者だとしたら、来場者は会場に来て初めて「絵画の存在とその展開について」と名付けられた個展の真意が、たんに一枚の同じ絵をめぐる「ぞんざいな回転」に過ぎなかったことに気付くことになる。
現代美術の作家は、とかく物事をむずかしく考えがちだ。だから、自分の個展に「絵画の存在とその展開について」というようなタイトルをつけたがる。しかし、一見しては真摯(しんし)そうなそんな問いへの答えが、「たんに絵がいろいろに回転するだけ」だったとしたら、どうだろう。もっと哲学的な「真意」を求めていた者は、あっと拍子抜けするだろうか。あるいは怒り出すだろうか。いずれにせよ、この会場で大小さまざまなかたちをとり、いろいろな速度で勝手気ままに回転している同じ一枚の絵が、まぎれもなく「絵画の存在(ぞんざい)とその展開(回転)について」であることに違いはない。だとしたら、この哲学的な問いの「真意」が、この展示風景であったとしても、べつに困る理由などない。
が、個展のタイトルをめぐるこの変更が、もし後者-すなわち不本意な変更であったとしたら、どうだろう。その場合は、「ぞんざいな回転」は、もはや真意にはなりえない。というよりも、「絵画の存在とその展開について」探求した結果、その真意へと到達することに挫折した作者が、やむなく「絵画のぞんざいな回転について」でお茶を濁したことになるだろう。
この両者は、結論としてはまったく違っている。けれども、とにかく見た目にはまったく同じである。だから、その真意がいずれであるのかは、会場に足を運んでみたひとが、自分で決めるしかない。いや、いまや真意の内容ではなく有無が問われているのだから、真意の真意といったほうが正確かもしれない。「絵画の存在とその展開について」の真意を確かめる機会であったはずの展覧会は、こうして、真意のあるなしのいずれに「真の真意」があるのかを確かめる場になっているのだ。
この展覧会は、ほんとうはハガキやネットで興味を持って訪ねた各人が、会場に足を踏み入れて初めて、そんな問いに直面するというのが、正しい鑑賞の仕方なのかもしれない。その証拠というわけではないが、会場にはけっこう目立つ位置に「撮影禁止」と掲げられている。最近の画廊では、暗黙に撮影は許されていることが多い。ツイッターなどで拡散されれば、客も増えるからだ。では、どうしてそんなに厳しくたしなめるのか。ネタバレ防止と考えれば辻褄(つじつま)が合う。それとも……? いったい、私は考えすぎなのだろうか。
しりあがり寿の「真意」や、いかに。(多摩美術大学教授 椹木野衣(さわらぎ・のい)/SANKEI EXPRESS)