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震災を忘れない 民を見守る素朴な面差し 「みちのくの仏像」「3・11大津波と文化財の再生」
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「重要文化財_薬師如来坐像」_平安時代・貞観4年(862)_岩手・黒石寺蔵=2015年1月13日、東京都台東区・東京国立博物館(原圭介撮影)
≪人の絆でよみがえった「大事な宝」≫
特別展の「みちのくの仏像」と「3・11大津波と文化財の再生」が、東京国立博物館で同時開催されている。「みちのくの-」展では、千年に1度という貞観大地震(869年)から東日本大震災(2011年)までを見つめていた薬師如来像をはじめ、東北6県から国宝、重要文化財の仏像が集まるのは初めて。「3・11大津波-」展では、岩手県陸前高田市の文化財を中心に4年間で16万点が修復された経過を紹介している。両展覧会を通して、大震災の記憶をたどりながら、東北の魅力を再発見したい。
「みちのくの仏像」で展示しているのは、国宝「薬師如来座像および両脇侍立像」(平安時代9世紀、福島・勝常寺)1点、「聖観音菩薩立像」(平安時代11世紀、岩手・天台寺)など重要文化財8点を含む計19点だ。
とくに、15年ぶりに東京で公開された福島・勝常寺の国宝の薬師如来座像と両脇侍立像に加え、岩手・黒石寺の重要文化財「薬師如来坐像」(平安時代・貞観4年)、宮城・双林寺の重要文化財「薬師如来座像」(平安時代9世紀)を合わせた、東北を代表する“3薬師如来”がそろい踏みするのも初めてとなる。
黒石寺の薬師如来坐像は、東京では初公開。くり抜かれた内側に、像をつくるのを願った人の名前、「貞観四年」(862年)が記され、制作年が特定できる。坂上田村麻呂が黒石寺から12キロ離れた場所に胆沢城を建てた802(延暦21)年からわずか60年後の制作。肩が張り、目尻がつり上がり、口元も引き締まった表情は、蝦夷征伐の戦いが繰り広げられた過酷な時代を反映しているのかもしれない。
宮城県の牡鹿半島の高台にまつられていた高さ2.9メートルの重要文化財「十一面観音菩薩立像」(鎌倉時代14世紀、給分浜観音堂)も東京初公開。東日本大震災では大津波が押し寄せたが、仏像は難を逃れた。これほど大きな仏像は平安、鎌倉期には類がない。集落では、漁や航海に出る人々を見守る仏、“灯台”のような存在だったとみられている。
岩手・天台寺の聖観音菩薩立像は、美しい姿、とくに鑿(のみ)の跡が特徴の仏像として人気がある。当初は、未完成と思われていたが、全身を浅い鑿で整えたうえに、さらに粗い鑿を施していることから、独特の“表現”であると解釈が変わった。こうした荒い仕上げの仏像は数十体あり、大半が関東から東北に見られるという。
このほか、細く、微笑んでいるような眼の表情が特徴の円空仏「釈迦如来立像」(江戸時代17世紀、青森・常楽寺)、運慶らの「慶派」に属する仏師が制作したとみられる重要文化財「十二神将立像」4体(鎌倉時代13世紀、山形・本山慈恩寺)など、東北の民を守り、東北の民によって守られてきた仏たちが、来場者を包み込む。
東京国立博物館学芸研究部列品管理課の丸山士郎・平常展調整室長は「東北の仏像には、どこか素朴で、人間味を感じる魅力がある。ぜひ味わってほしい」と話している。
2011年3月11日の東日本大震災から何日かたったある日、大津波で被災した岩手県陸前高田市の市立博物館の玄関先に、1枚の紙が置かれていた。その紙にはこう書かれている。
「博物館資料を持ち去らないでください。高田の自然、歴史、文化を復元する大事な宝です」
誰が書いたのか、いまだに分かっていないが、それを見た被災者や関係者は勇気づけられたという。
津波発生わずか3週間後の31日には、東京国立博物館や岩手県立博物館などが連携し、津波で流出した文化財を“救出”するレスキュー委員会(1次レスキュー延べ7000人)が組織された。陸前高田市が収蔵していた文化財は約56万点あり、そのうち46万点が回収された。岩手県の文化財被害は、この市の被害が大半を占めた。
それだけ文化財が集積していたのは、宮沢賢治とも交流のあった地元の博物学者・鳥羽源蔵氏(1872~1946年)が植物を中心に採集した標本が多かったことも要因。文化財はほかに、貝類や昆虫、縄文中期の土器、漁具、絵画、「高田歌舞伎」の衣装…。さらには1600年代から、庄屋にあたる「大肝煎(おおきもいり)の吉田家が伊達藩に報告するために地域の情勢について記録した「吉田家文書」と、文書に記録のある隕石(いんせき)などもあり、広範囲だ。
レスキュー隊のスピーディーな対応は、20年前の阪神大震災でできなかったことを教訓に「躊躇(ちゅうちょ)しないでアクションを起こすことにつながった」(神庭信幸・保存修復課長)。東京国立博物館が、こうした復興活動に乗り出したのは初めてという。
とはいえ、もともと津波被害を受けた文化財の修復についてノウハウがあるわけではなかった。とくに、文化財にしみこんだ塩分を抜く「安定化処理」には科学的な技術も時間も金も必要だった。全国の科学系博物館や大学のネットワークを利用し、この処理だけで3000~5000人が関わった。
そして4年をかけ、約3分の1にあたる16万点が修復された。展覧会では、津波で流され、米国カリフォルニア州で発見されて返還された岩手県立高田高校の実習船「かもめ」、明治から大正時代に幼児教育で使われたリードオルガン(市立博物館蔵)も公開されている。
今回の文化財再生では、岩手県立博物館の中に、修復作業を外から見られる専用施設も設けた。修復のノウハウが現地にも伝わり、後進にも受け継がれるようにとの配慮だ。
残り3分の2の修復には、さらに10~20年の年月がかかるという。文化庁から県に年間10億円の補助金が出ているが、決して潤沢とはいえない。さらにはマンパワーの問題があり、最後までしっかり修復が行われるのかは不透明だ。
神庭保存修復課長は、「これまで延べ1万人以上の人たちが再生に関わった。そこにはネットワーク、絆があった。再生は人の思いがないと実現できない。文化財は人が守る。機械では守れないことを知ってほしい」と話した。(原圭介/SANKEI EXPRESS)