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【逍遥の児】武将茶人 古田織部の最期
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武将茶人、古田織部(おりべ、1544~1615年)。没後400年を機に東京・銀座で展覧会が催された。
明るい冬の陽光が降り注ぐ。松屋銀座の会場に入る。驚いた。満員。多くの人々が展示品に見入っている。お年寄り。和服姿の女性。若者。織部ってこんなに人気があったのか。
黒織部茶碗(ちゃわん)。美濃焼。17世紀初頭の作とみられる。ゆがんだ曲線。胴部に四角と丸を組み合わせた抽象模様。織部の花押(かおう、署名)が記してある。自ら窯元に出向き、陶工に指示して作らせたのだろうか。
小さな竹茶杓(ちゃしゃく)。貴重な茶をすくう道具。左右がふぞろいだ。ゆるやかに曲がっている。織部自身の作と伝えられている。
彼が愛した茶道具の特長はゆがみ、意表を突く斬新な造形美。「織部好み」ともいわれる。
会場には茶室も復元されていた。大小さまざまな窓が7つもある。明かり取りが目的ではなく、「座敷の景」のために設けたという。清浄。解放感がある。心のびやかに茶をいただけそうだ。
織部は武士である。数々の合戦に出陣している。茶道にも関心が深く、千利休の弟子となった。茶の世界を極めた利休は、次第に豊臣秀吉と対立していく。ついには秀吉の怒りを買い、京都を追放された。多くの弟子がはばかる中、織部は船着き場まで見送りに行ったと伝えられる。天下人、秀吉を恐れぬ反骨心がうかがえる。
展覧会を満喫。帰宅した。京都出身の友人から贈られた自作の皿を取り出す。彼は陶芸が趣味。織部焼を好む。ゆがんだ曲線。鮮やかな緑。妻が握り飯を盛った。つつましい食事に雅趣が生まれるから不思議だ。
さて、古田織部の晩年。どうなったのだろうか。徳川家康に仕え、天下一の茶人となった。大名たちが争うように教えをこうた。絶頂期。
大坂の陣。織部は徳川方についた。だが、豊臣方に内通したとの疑いをかけられる。なぜ、謀反を起こそうとしたのか。謎である。家康は切腹を命じた。最期の言葉。「かくなる上は さしたる申し開きはなし」。一切、弁解せず、自刃して果てた。(塩塚保/SANKEI EXPRESS)