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社会
防災・減災活動 住民との連携が基本 渡辺武達
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最近のバヌアツでのサイクロン襲来もそうだが、防災学の発達した日本でも相次ぐ地震や津波、大雨による土砂崩れといった災害発生を予測し、防ぐことは困難だ。しかし、被害を最小限にするにはどうしたらいいかを考え、防災・減災の事前準備をし、その実行に務めることは可能であり、日本だけではなく国際的な課題である。
3月24日、中国上海にある華東政法大学に招かれ、「震災報道とメディアの責任~日本の経験からの提言」と題した講演をした。その後、華東政法大学の範玉吉人文学部長、韓景芳助教授、聴講学生らと懇談した。そのことをベースに災害を中心とした日中間の相互協力と今後のメディア・情報学のあり方について考えてみる。
筆者は東日本大震災を例にして話をした。聴講した100人超の男女学生たちの対日観は一般的に報道されている日中両国政府間のぎくしゃくした関係とは異なっていた。彼らは一様に語ったのは、「震災後の日本人の秩序、社会公徳心、冷静さと忍耐力などに感動した。その点での日本人の行動は素晴らしく、中国人は見習わなければならい」という称賛であった。
学生たちは日本人のそうした団体行動を支えている精神面とその形成過程に大きな関心を持ち、教授たちにも質問し、日本の歴史や、社会、文化に関する本をよく読んでいた。そして、被災地の日本人に同情し、震災によって沢山の死者が出たことを悼んでくれた。その日本人と中国人がなぜ相互の歴史認識で一致できないかは不幸であると多くの学生たちが語っていた。
この反応は上海から移動した福建省のアモイで議論した大学院生たちも同じであった。このことからいえるのは、中国でも日本でも学生たちは、中央政府による政治・経済の駆け引きではなく、個人の幸せを日常生活の中心として考えるという点で共通しているということだ。なかでも、中国で東日本大震災のような災害が起きれば、人々は冷静に対応できず、略奪さえ起こりかねないと言っていたのは印象的であった。
筆者は東北の震災現場にこれまで20回以上足を運んでいるが現場で窃盗がなかったわけではない。しかし、それはごく例外で、米国の災害現場で頻発する集団での計画的あるいは公然かつ無秩序な略奪は今の日本ではあり得ない。中国でも災害直後の政府による十分なケアが期待できないことから略奪もないとはいえないということであった。
どこでも災害はあるが、日本なら、翌日には食料や衣類などの救援物資が届き始めるという社会的安心感の共有がある。それは過去の実績に基づくものだが、欠陥がないわけではない。それは防災・減災計画が科学への過信と防災施設の建設に依存していることだ。
1995年の阪神大震災でも、東日本大震災でも、家族みんなの顔を周辺の人たちが把握しているような地域や、事前の防災演習を行うなど情報が行き届いていたコミュニティーでは犠牲者が極端に少なかった。災害が起きれば、復興で稼げると考える復興資本主義的な考えを排すし、住民、地域、自治体の協力が犠牲者を少なくするという考え方に基づいたコミュニティー活動が求められている。
その点で、この4月から具体的な活動が正式に始まる岩手県大槌町の「大槌メディアセンター」は注目に値する。これは4年前の震災で町長を含む人口の1割近くを失った反省から大槌臨時災害FM放送(倉本栄一代表)や週刊大槌新聞(菊池由貴子発行人)などが協力し、町の支援を得て、電波とネット、紙媒体が中心となり、町民参加のトータルな防災活動を具体化するものだ。
結局、自らが参加し、自らを守るという日常的な活動が広がらない限り、防災・減災活動は完成しない。それを国家や学界が補強するということでしか私たちの命や財産は守れない。このことは世界中の共通課題といってよい。(同志社大学名誉教授、メディア・情報学者 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS )