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【両陛下パラオご訪問】「1万の英霊 喜んでいると思う」 生還の元日本兵2氏

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【両陛下パラオご訪問】「1万の英霊 喜んでいると思う」 生還の元日本兵2氏

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「西太平洋戦没者の碑」で拝礼後、遺族関係者らに声をかけられる天皇、皇后両陛下=2015年4月9日午前、パラオ・ペリリュー島(松本健吾撮影)  天皇、皇后両陛下が戦没者を追悼された西太平洋戦没者の碑では9日、日本を遠く離れた島での激烈な戦いで仲間をほとんど失い、重い戦後を生きた生還者の元日本兵2人が、万感の思いで立ち会った。

 「34人のうち、私が幸運にもここに来ることができた。1万の英霊たちが喜んでいると思いました」。ペリリュー島守備隊で生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)=福岡県=は、西太平洋戦没者の碑で拝礼した天皇陛下からおねぎらいを受けた後、報道陣にそう語った。

 約1万人がほぼ全滅した守備隊の中で、1947(昭和22)年まで抗戦して生還した隊員34人の一人だ。戦友の御霊(みたま)が陛下と邂逅(かいこう)する場に立ち会いたいと、車いすの老身を押して訪島した。シャツの胸には生還者の会「三十四会(みとしかい)」の刺繍(ししゅう)があった。

 弾薬も食糧も補給がない中、後輩、同僚、上官が目の前で次々と落命。「自分もいつ死んでもおかしくなかった」。守備隊の組織的戦闘は44年11月に終結し、日本は45年8月に終戦を迎えたが、土田さんたちは「徹底抗戦」の命令を守り、険しく狭いサンゴ岩の洞窟に息を潜めて抗戦を続けた。

 今回、島に到着した今月5日。慰霊碑「みたま」の前で、ハーモニカを吹いた。若くして帰れなかった戦友らを思い、南洋での海軍兵らの郷愁を歌った「ラバウル小唄」を選んだ。「1万の英霊たちが喜ぶ姿が、はっきりと見える」。戦友を追悼された両陛下のお姿に、土田さんはつぶやいた。

 「ありがとうございます。戦友に代わって、御礼申し上げます」。元陸軍二等兵、倉田洋二さん(88)=東京都=は、ペリリュー島の南西に位置するアンガウル島での過酷な戦闘で散った、宇都宮歩兵第59連隊第1大隊約1200人の仲間の名簿を手に、両陛下に伝えた。

 陛下の「ごくろうさまでした」というお声が、戦友全員に届いたと思った。両陛下は西太平洋戦没者の碑に花を手向けた後、海の向こうに見えるアンガウルの島影にも深く頭を下げられた。倉田さんもつえで立ち上がって拝礼した。

 南洋にいた親類を頼って10代でパラオに移住。「一生住みたいほど楽しい青春だった」。そんな中、現地召集に応じ、アンガウル島で10倍以上の兵力の米軍と対峙(たいじ)。砲撃で重傷を負いながらも抗戦を続けたが、米兵に発見、拘束された。「生き残ってしまった」との思いは消えず、戦友が眠る靖国神社にはなかなか足を運べないという。

 戦後は、パラオにある戦友たちの慰霊碑維持に尽力してきた。体調が万全でない今も東京から往復し、碑の清掃など「戦友としての務め」を続けている。アンガウル島の碑は台風などで破損していたが両陛下ご訪問を控え、修復を1週間前に完了できた。大きな節目を迎えたが、慰霊は生涯続く。「現地との交流を通じ慰霊碑が『友好の碑』になってくれれば」とも願う。(ペリリュー島 今村義丈/SANKEI EXPRESS

 ■ペリリュー島の戦い 1944(昭和19)年9月、フィリピンへの進撃を目指した米軍が、日本軍の飛行場があったパラオのペリリュー島に上陸し、激戦となった。日本軍は島に張り巡らした塹壕(ざんごう)や洞窟に身を隠しながらゲリラ戦を続けたが、約2カ月半で守備隊約1万人がほぼ全滅。生き残った34人はその後も約2年半にわたり、密林や洞窟に潜伏した。近くのアンガウル島でも約1200人が死亡、パラオ全体での戦死者は日本が約1万6000人、米軍も2000人近くに上った。2島の住民は別の島などに疎開していたが、中心地コロール島の街も空襲で壊滅した。

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