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「おもろ」も当事者だと「ぞっとする」 町田康

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「おもろ」も当事者だと「ぞっとする」 町田康

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(町田康さん撮影)  【本の話をしよう】

 私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人は時折、交通事故に出くわす。

 先日も家の近所で乗用車二台が関係する追突事故を見かけた。そうしたとき読み狂人がどう思うかと言うと申し上げにくいが、おもろ、と思う。

 と言うと、不幸な事故を見て、おもろ、と思うのか。不幸にも事故に巻き込まれた人を気の毒とは思わないのか。読み狂人は人でなしなのか。と怒ってすれ違いざまに腹を殴ったり、関節技を掛けたりする人が出てくるかも知れぬが、いや、読み狂人とて、もしそこに人の生首とかが落ちていたら目を覆いたくなるに違いない。

 と思いたいが、いや、そうでもないのかな、とも思う。

 「普段と違う」風景

 なぜなら、自動車事故をおもしろく思うのは、そこに普段とは違った光景が展開しているからで、美しくデザインされた自動車がグシャグシャになっているというその様は普段、けっして目にするものではなく、そこのところをおもしろく感じるのであり、ならば、普段は首に繋がっている笠の台が、たーがーやー、つって飛んでいくのは、普通に考えれば目を背けたい光景であるが、もしかしたら嫌なのにじっと見てしまう光景なのかも知れない。

 というのがなにも読み狂人に限ったことではないのは、見物渋滞、という言葉があることからも明らかである。

 他人事だから楽しい

 けれどもそうして、おもろ、と思う交通事故も自分が当事者となれば話は別である。おほほ、おもろ。と思いつつ、壊れた車を見たり、へし折れた自分の脚をマジマジと凝視する余裕など当然なく、うそ寒いような、ぞっとするような気持ちになる。或いは、痛みに絶叫する。

 なので交通事故のおもしろみというものは、どこまでいっても他人事であり、当事者としてこれをたのしむことができない。ならば、それならば。

 言葉において交通事故を起こして、痛みに苦しみながら、そのおもしろみを味わってやろう。味わい尽くしてやろうじゃん。と、頑張る人が出てくる。そして、それを読んでおもしろみを味わおうという人も出てくる。しかし、それは難しきことで、やろうと思ってもなかなかできることではない。というのはやってみるとわかるが、ただただ痛いだけ、苦しいだけでちっともおもしろくなかったり、ただ醜悪なだけだったりするからである。

 言葉で「起こす」と

 なぜそうなるかというと、言葉というものがそもそもそういう性質を有しているからで、言葉が言葉だけで言葉と事故る、ということがそもそもありえないからである。

 松井啓子の詩集『くだもののにおいのする日』は、交通事故ではないが、そうした、当事者しか感じられない、ぞっとする、血の気が引くような感じ、と、おほほ、おもろ。が同時同所で起こっていて奇蹟のように美しい風景が言葉のなかに内包されている。

 一行ごとに、えっ、と立ち止まるところがあって、言葉に前後左右奥行きがあって、その奥行きのなかを自分の笠の台がどこまでもどこまで、けけけ、と笑いながら飛んでいって視える景色が美しすぎて、読み狂人、この詩集からいつまでも抜け出せないで、グシャグシャになっちまった。うくく。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS

 ■まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に『残響 中原中也の詩によせる言葉』(講談社文芸文庫)。

「くだもののにおいのする日」(松井啓子著/ゆめある舎、2400円+税)

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