SankeiBiz for mobile

太平洋の激戦地・サイパン(上) 委任統治 不満も感謝も

ニュースカテゴリ:EX CONTENTSの政治

太平洋の激戦地・サイパン(上) 委任統治 不満も感謝も

更新

夕陽に包まれたチャラン・カノア・ビーチ沖に残る米軍の戦車=2015年4月24日、米自治領・北マリアナ諸島のサイパン島(佐藤良一さん撮影)  第二次世界大戦の激戦地となった米自治領・北マリアナ諸島にあるサイパン島。米軍が上陸したススペ地区周辺の沖合に砲塔だけ顔を出したシャーマン戦車が今も残る。日没とともにシルエットがくっきりと浮かび上がってきた。

 「現地人は委任統治に不満だったと思います」。戦跡巡りのガイドを務めるバルシーナス米子さんが話す。夫はミクロネシアの先住民であるチャモロ人。夫の父親から日本の委任統治領だった頃の話をよく聞かされた。

 当時は国際連盟が制定した委任統治条項で現地人に酒類を提供することが許されていなかった。隠れて酒を飲み、刑務所に入れられる現地人も多かったという。

 戦後70年の歳月を経て、巨大な樹木が日本刑務所跡を侵食している。分厚いコンクリートで堅牢(けんろう)に造られているが、雨水をためやすいようにトタン屋根だったという。相当に暑かったことだろう。戦時中は米軍捕虜の収容所となり、壁には上陸日の1944年6月15日の日付が刻まれていた。

 16世紀のマゼランによる発見以来、サイパン島はスペイン、ドイツ、日本、米国と統治されてきた。米子さんの義父は「今考えると一番よかったのが日本」と振り返るそうだ。

 「算術も九九も教わった。成績優秀者は内地の学校にも入れてもらえた。今の教育よりずっといい」。そして「戦前も戦後も日本が開発してくれた。戦後は観光業でサイパンを育ててくれた」と感謝を忘れない。

 ≪悲痛な歴史の地で残念な振る舞い≫

 サイパン島の北端に近いバンザイクリフ。多くの日本兵、民間人が「万歳」と叫びながら80メートル下の海に身を投げたことからその名が付いたとされる。その数は1万人ともいわれ、海は血で真っ赤に染まり、遺体の上に落ちて助かった者もいたという。

 海を見渡せる風光明媚(めいび)な地で、今では観光スポットになっている。大小さまざまな慰霊碑が並ぶが、そのうちの一つには裏側にガムをこびりつけた跡が無数にあった。

 同じくたくさんの自決者を出したマッピ山頂にある断崖スーサイドクリフ。近くにある個人名の書かれた小さな碑は破壊されたものが多数あった。

 日本軍最後のトーチカがあったとされるラストコマンドポストでは、団体客が砲身にぶらさがったりしながら記念写真を撮り合っている。会話から判断すると中国人のようだ。静かに犠牲者の冥福を祈れないものか。ため息しか出ないが、日本のガイドブックにバンザイクリフで万歳をする若者の写真が載っているというから不謹慎なのは日本人も一緒らしい。

 ツアーガイドのバルシーナス米子さんは米軍上陸地、刑務所跡、飛行場跡に残る防空壕(ごう)など観光ルートから外れた戦跡を中心に案内している。米軍上陸時に奮戦した黒木大隊玉砕の地は、碑と砲が残されているが私有地のため日本人の訪問者は皆無という。

 日本からの慰霊団を見るたびに「案内したい」との思いが強くなり、十数年前から知られざる戦跡を巡るツアーガイドを始めた。「自分探しとか言ってイスラムに行く日本の若者がいるけど、その前にサイパンの戦跡を回ってほしい」と強く訴えた。(産経デジタル 長浜明宏/撮影:カメラマン 佐藤良一/SANKEI EXPRESS

ランキング