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言葉だけの完璧な楽曲 町田康
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(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくりたる挙げ句の果て、読みにくるひて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私は最近、歌詞を書いている。
なぜ書くかというと曲があるからである。曲があって節がある。ただ、歌詞がない。ならば誰かがこの空白を埋めなければならない、そこで、「こうみえてわっちは書き狂人。よござんす。わっちが書きましょう」と言って引き受けたのである。
そいでどうだったかというと、なかなかに難しく、譜は九つあったのだけれども、まず私は譜が読めない。なので節をピアノで弾いて貰ったり歌って貰ったりして、録音を聴きながら節に言葉を当てはめていく。ところが、これがなかなか合致しない。
例えば、言葉の方の都合では三文字で都合よく収まるのだけれども節の方の都合でどうしてもそこは四文字にしなければならない、なんてことがあって、本当は、「さんま」と書きたいのだけれども、「太刀魚」とせざるを得ないのである。
しかし本来、さんま、であるべきを、太刀魚、とすれば当然、意味が変わってくるのであって、例えば、「秋刀魚の歌」という詩の、さんま、の部分をすべて、太刀魚、と書き換えたら、あの感じにはならない。義理と人情の板挟み、ではないが、節と歌詞の板挟み、みたいなことになるのである。
或いはまた、節には音の高低がある。そして言葉にも音の高低がある。それが真逆になっていると歌ったときに意味が判らなくなるので一定程度、高低を合致させる必要があって、この場合も言葉の都合はかなり制限される。
そのようなことに留意して、なんとかひと繋がりの、意味のある言葉の連なりを完成させてみたところで、実際に歌ってみると、「なんか違う」となることが多い。なぜそんなことになるかというと、節や曲には言葉にできない雰囲気というか趣きのようなものがあり、それにばすっと嵌まらないと曲が拒否反応のような反応を示すからである。
それでも何箇所かは、「そもそもこの節は最初からこの言葉を想定して拵(こしら)えられたのではないか。いやさ、この節そのものがこの言葉を欲していたのではないか」と思えるくらい、いろんなことがうまく合致する。けれどもそれは全体からすれば僅かで、何度も何度も書き直して詞は永遠に完成しない。
なんて日々にふと、水原紫苑の『光儀(すがた)』を読んでボコボコになった。なぜならそんな次元を遥かに超えた完璧な楽曲が言葉だけでガンガン鳴り響いていたからである。
ボコボコというと殴られた感じがあり、もちろんその感じもあったけれども、頭を刀で貫かれたような感じもあって、読み狂人は、ウヒャーン、と鳴きながら裸足で庭に飛んで出て、その後のことは覚えていない、気がついたときには夜になっていて、それから暫くの間(一週間くらい)、いろんな理屈や事情や配置や境界が頭のなかでグシャグシャになって、これまでこういうことは悲しいこと、とか、こういうことは喜ばしいこと、と根拠なく前提にしていたことが、逆というか、入れ子状になってしまい、なにがなんだかわからないのだけれども、その状態に痺れたように魅入られる、といったことになってしまって読み狂人はラリホー。旺文社の古語辞典とかも百年ぶりに引いて。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)
第8歌集となる本作では“非在なるものへのあこがれ”を美しい韻律にのせて詠んだ。砂子屋書房、3000円+税。