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見えない現場が見えてくる 町田康
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(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句の果て、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人がさっき表に出ると中途半端な家の庭に藤の花が咲いていた。
そのとき読み狂人は、やあ、藤の花が咲いているなあ、と思ったように思う。
なぜそう思うかというと、先月も先々月もそこを通ったが藤の花は咲いておらず、ただただ汚らしい雑木があるばかりであったからなような気がするが、それはあくまでも後付けの理屈であって、もしかしたら別の理由で、やあ、藤の花が咲いているなあ、と思ったのかも知れない。
というかもっと言うと、やあ、藤の花が咲いているなあ、と思ったのではなく、ああ、藤の花が咲いているなあ、と思ったのかも知れないし、さらには、藤の花が咲いているなあ、と思うことは思っただろうけれども、本当は、その藤の花の下に蹲(うずくま)っていた猫を見て、パー、猫が居る! と思っていたのかも知れないし、いや、もしかしたら、その猫を追いかけてなぜかそこに猫が居ることに激怒して家の中から乳を丸出しにして暴れ出てきたおばはんのことをもっと思っていたのかも知れないし、その家の前を毎朝通って、私の家の方に歩いてくる、絶対にこちらを見ないし、挨拶をしないおばはんのことを思っていたのかも知れない。
というのが実際のところなのだけれども、こうして文章を書く場合、やあ、藤の花が咲いているなあ、と思った。ということにそのすべての気持ちを集約させて、それで終わりにしてしまうことが多い。
なぜならそうしたその瞬間のすべてを書いていると、文章のなかに生じる時間というものがグシャグシャになって、書くものがディレクションできなくなってしまうからである。
なんてことは普段は意識しないのだけれども、そんなことをつい思ってしまうのは、滝口悠生の『愛と人生』を読んだからで、この小説は、何十年にもわたって盆暮れに人の心を和ませ、共感を生んできた国民的と呼称さるる、山田洋次監督作品「男はつらいよ」シリーズを動機としているが、このなかでは、そうした様々の人間の思いが縦横に描かれ、なおかつグジャグジャにならず、小説としてのまとまりを保ち、独自の思想や感情が提示されていた。
映画というものはカットの集積でできている。監督が、「ヨーイ、スタート」と言い、「カット」というまでの瞬間の連続を組み合わせてひとつのまとまりとなる、それが映画である。
そのカットとカットの間にあるのが所謂(いわゆる)ところの、現場、である。
観客はけっして、現場、に立ち入ることができない。できあがった、作品、を観賞することしかできない。現場、を知るものはメイキングビデオというものもまた、作品、であることを知っている。
しかるにこの小説は小説作者の、また映画の、また読者の、現場、を提示してしまっている。そして完璧な作品となっている。凄いことと読み狂人は思ったぜ。文体にも工夫あるし、結末とかでは井伏鱒二とか思い出したし、すっげぇ、と思ったぜ。思ったわ。うるる。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)