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社会
「玉砕の島」硫黄島 最前線から着の身着のままで疎開
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1945年2月19日に硫黄島攻略のため米海兵隊が上陸した南海岸。摺鉢山(すりばちやま)は日本軍が地下壕を掘り要塞化した。それぞれの場所で激しい戦いが繰り広げられた=2015年6月15日、東京都小笠原村(早坂洋祐撮影) 東京から南へ約1250キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島(東京都小笠原村)。今もあちこちから噴煙が上がるこの火山島は、太平洋戦争末期、グアムやサイパンを制圧しながら日本本土へと迫る連合軍と守備にあたる日本軍との間で激戦が繰り広げられた。小笠原兵団最高指揮官の栗林忠通中将以下、約2万1900人の日本兵が戦死した玉砕の島として語り継がれる。
島は1889(明治22)年から小笠原諸島父島の住民が入植を開始。硫黄採取やサトウキビ栽培など農業が行われていた平和な島だった。
昭和に入り海軍の飛行場が整備され、戦争の激化とともに本土防衛の最前線となった。連合軍は1944(昭和19)年末に始まったB29の本土空爆を有利に進めるため、島の占領を計画。45(昭和20)年2月19日、米海兵隊による本格的な上陸作戦が始まった。
日本軍は全長18キロにもなる地下壕を掘って島を要塞化。武器や弾薬のみならず水や食糧が尽きる中、1カ月半を超える抵抗を続けた。3月26日には栗林中将ら幹部の戦死で組織的な抵抗が終わり、米軍は島の占領を宣言。米軍も6821人の死者を出し、死傷者数では大戦中唯一米軍側が多くなるなど、壮絶な戦いとなった。
1000人ほどいた島民たちのうち女性や子供たちを中心に本土への疎開が行われたが、軍属として徴用されていた男性たちは島に残り、82人が犠牲となった。「着の身着のまま漁船に乗り、甲板で毛布に身を隠し米軍の機銃掃射を恐れながら1晩かけて父島に着いた」。14歳で島から避難した山下憲二さん(85)=川崎市宮前区=の記憶は鮮明だ。
6月中旬、山下さんら約40人の旧島民とその家族たちが故郷の島を訪問し、亡くなった家族や友人たちの慰霊碑の前で静かに手を合わせた。
≪変わらぬ望郷 帰還かなわず≫
「1時間でも長くふるさとに滞在したい…」。
先の大戦で2万人を超える日本兵が戦死した硫黄島。国や東京都は、戦没者遺族や旧島民に対する硫黄島慰霊行事を年数回行っているが、飛行機を利用するため滞在時間はごく僅かだ。同じ村出身の旧島民のために、小笠原村ではフェリーで島を訪問し島内の施設に1泊する訪島事業を毎年行っている。6月中旬、かつての島民らが上陸した。
島に到着すると、海岸でも噴煙が上がり火山特有の腐った卵のような臭いが鼻をつく。海上自衛隊の観測では年に1メートルほど隆起する場所があり、「戦前は大人たちが船に乗ってピクニックに出かけ、釣りなどをしていた」(旧島民)と言う、1キロほど沖にあった小島も陸続きになった。活発な火山活動の一方で、空爆や艦砲射撃などで焦土と化した土地にガジュマルが生い茂り、戦いの爪痕はジャングルに消えつつある。
旧島民とその家族に加え、遺族会や小笠原村民などが慰霊のため上陸。強い日差しと地熱による猛暑の中、地下壕や慰霊碑などを回り、亡くなった人々に水を手向け冥福を祈った。旧島民は伸び放題の草木をかきわけ自宅へ“里帰り”した。
多数の不発弾や火山活動などを理由に、政府は「硫黄島民の帰還は困難」との姿勢を崩していない。「島民たちの疎開は続いています。こんな悲しいことはないですよ」と、山下憲二さんは話す。
都心から片道40時間近い船旅、猛暑…。故郷を訪ねるのは容易ではない。旧島民の高齢化が進み、子供や孫の世代が代理で里帰りするケースもある。しかし、故郷への思いは変わらない。「生きている家族は私だけ。来年も帰ってきます。たとえ腰が曲がっても」。島で兄2人を亡くした奥山登喜子さん(82)=千葉県松戸市=は帰路の船上で、遠ざかる島を見ながらつぶやいた。(写真・文:写真報道局 早坂洋祐/SANKEI EXPRESS)