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【USA! USA!】(19)ウィリアムズバーグ&チャールストン 英植民地時代の歴史伝える町
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18世紀の町並みを再現した博物都市「コロニアル・ウィリアムバーグ」の目抜き通りにはコロニアル様式の建物が並び、英国旗のユニオンジャックが立てられていた=2014年11月27日、米バージニア州ウィリアムズバーグ(早坂洋祐撮影) 町の目抜き通りには左右対称の大きな窓が特徴のコロニアル様式の建物が並び、道には荷馬車が走る。古めかしいマント姿にぶかぶかのズボンをはいた男性は、英国国旗のユニオンジャックを玄関先に立てかけていた。バージニア州ウィリアムズバーグにある「コロニアル・ウィリアムズバーグ」は、英国植民地時代の歴史を伝える町だ。
英国人のジェームズ川周辺への入植は1607年から始まった。1699年には植民地政府の州都がジェームズタウンから移され、ウィリアムズバーグは人口2000人の町となった。独立戦争(1775~83年)の最中に州都は90キロ離れたリッチモンドに移され、ウィリアムズバーグは衰退していった。
そんな忘れられた古都を歴史地区として保存に動いたのは、20世紀になってブルートン教区教会に赴任したグッドウィン牧師だ。牧師は1930年代中頃から歴史的な建物を残す運動を始め、ロックフェラー財団の協力で傷んだ建物を修復し、焼失した総督公邸や議事堂は資料を基に復元。19世紀以降の比較的新しい建物は撤去し、植民地時代の町を再現した。
今日では裁判所、鍛冶屋、印刷屋、靴屋、居酒屋など約500棟の建物が公開され、当時の服装をした出演者たちが300年前の生活を再現している。出演者たちが話す英語も英国なまりを使うという徹底ぶりだ。
ミズーリ州セントルイスから来たサム・アットさんは「子供たちにとって、この古い町並みはアメリカの歴史を知るのにとてもいいと思います」と話すように、アメリカ史になじみの薄い日本人にとっても、アメリカの初期を知る絶好の場所だ。
≪米国人の「心のふるさと」 人気観光地に≫
3億人が暮らすアメリカ。ニューヨークやシカゴなどの都市部では高層ビルや巨大な集合住宅が立ち並び、地方都市では庭付きの大きな邸宅が特徴の郊外型住宅が定番だ。しかし、サウスカロライナ州チャールストンでは、歴史を感じさせるコロニアル様式の建物や低層のビル街、パームツリーが植えられた石畳の道など古い町並みが残る。アメリカの歴史を伝えるその景観は米国人の「心のふるさと」とも呼ばれ、米国の旅行雑誌では人気投票で何度も1位に選ばれてきた。
大西洋にそそぐアシュレイ川とクーパー川に挟まれたデルタ地帯に建つチャールストンは、1670年にイギリスからの入植者たちが上陸した州内最古の街だ。プランテーションで生産した綿花や茶葉、木材などの輸出やアフリカからの奴隷を輸入する貿易港として繁栄し、南部の経済と文化の中心地となってきた。南北戦争(1861~65年)では、サウスカロライナ州は連邦政府から脱退し南部同盟側についた。連邦軍の兵士が駐屯していたチャールストンの1キロほど沖合の島のサムター要塞は1861年に南軍との砲撃戦が行われ、南北戦争の火蓋が切られた古戦場だ。島には今も要塞の跡が残り、観光客の人気を集めている。
チャールストンには1771年に建てられた旧商品取引所をはじめとする植民地時代の建物や、19世紀ごろの教会や邸宅が並ぶ地区があり、歴史的な建築物は4000棟にのぼる。観光客は車を駐車場に止め、歩いたり馬車に乗ったりしながら歴史散歩を楽しんでいた。
これらの建築物が残されたのは20世紀初頭の市民らによる保全運動がきっかけ。1931年には、米国初の歴史的環境の保全条例が制定され、歴史地区内の建造物の改変や取り壊しが規制された。さらに、1975年から現在まで市長を務めるジョセフ・ライリー氏は都市デザインを優先する政策をとり、高さ規制や広告の制限などを通じて街の価値を高めてきた。
チャールストンを訪れる観光客数は年間400万人。100年にわたる保存活動によって、町は300年にわたるアメリカの歴史を伝える魅力的な観光都市に育て上げられていた。(写真・文:写真報道局 早坂洋祐/SANKEI EXPRESS)
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