詩的なものを嫌って散文へ
詩と散文の関係、特に、詩人はなぜ小説家になったかという問いに対する答えはグングンにつき詰まって、それ自体が言葉の奥底にあるなにかのよう、例えば、詩が、詩的なものを嫌い、それを振り払っていった挙げ句、「経文」と化し、それでは退屈なので細部を補って再展開することが「説教」だけど、それはもはや詩じゃなくて散文行為だよね、といったところがそう。そしてそれはそうした人間としてギリギリな状況から出発した犀星の心理を説明する部分では、自分が組長として小説一家を立ち上げるためには、詩という親分を刺し殺さなければならない、といった、それこそ開いた表現もなされて愉快でわかりやすい。
或いは、萩原朔太郎が食事中に飯粒をまるで子供のように盛大にこぼし、犀星が驚き呆れつつ、これを拾ってやるという挿話が、「犀星は詩人のこぼしたメシツブを畳の上を這いながらひろい、それは同時に飛翔する詩がこぼすものを地を這いながらひろうことだった。小説はメシツブばかりでなく詩が見得を切るのに脱ぎすてた不要な衣類、詩が発声したあとのツブヤキやナキゴト等もひろって小説国の郎党に迎えるのだった。」という風に展開する。読み狂人は。アッ、と声を上げてしまったぜ。詩について考えるときはこれを読みたいね。室生犀星も読みたいね。って思ったぜ。下郎のように思ったぜ。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)