【BOOKWARE】
広島に生まれた鈴木三重吉は東京帝大の英文科で漱石の講義を受けて感化されたものの、病弱で休学せざるをえなかった。その後『千鳥』を創作して漱石に送ったところ、虚子も認めるところとなって「ホトトギス」に掲載された。だから三重吉はその後も短編小説を書いていたのだが、広島で学校教師をしているうちに、ある疑問にぶつかった。いったい日本の子供たちは国が定める小学校唱歌や童話や昔話を歌ったり読んだりしているだけでいいのかという、とても大きな疑問だ。
大正6年(1917)、三重吉は『世界童話集』の刊行を開始すると、翌年には雑誌「赤い鳥」を創刊した。芥川、白秋、徳田秋声、西条八十、谷崎、三木露風など多くの若い作家や詩人が呼応した。「赤い鳥」巻頭にはこんな標榜語が掲げられている。「われわれ日本人は西洋人と違って、哀れにもほとんど未だ嘗て、子供のために純粋な読み物を授ける、真の芸術家の存在を誇り得た例がない」。
ぼくは三重吉の「赤い鳥」運動をそうとう大きく評価してきた。とくに成田為三らの譜面とともに掲載された八十「かなりや」や白秋「からたちの花」などの童謡が日本近代にもたらしたものは、他の何物にも代えがたいほどかけがえのないものだった。とりわけぼくが注目したのは、それらの童謡には「悲しみ」「寂しさ」「失ったもの」が歌われていたことだ。