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社会
【東日本大震災3年】「見つけられなかった父」「生かされた使命果たす」
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宮城県本吉郡南三陸町の防災対策庁舎前の祭壇で手を合わせる家族連れ。知人の冥福を祈った=2014年3月11日午後(早坂洋祐撮影) ≪福島代表・田中有香理さん「見つけられなかった父」≫
「もしかしたら生きていたかもしれないのに見つけてあげられなかった。その思いが消えることはなく、ただ胸がしめつけられる」
政府主催の追悼式に福島県代表として臨んだ会社員、田中友香理さん(27)の追悼の言葉には、父を失った無念さがにじみ出ていた。
3年前のあの日、双葉町の自宅で洗濯物を干していたら、父の利克さん=当時(54)=が手伝ってくれた。最後の会話は「次の休みに一緒に車の点検に行こうな」。その後、浪江町の勤務先で、父が自宅で津波に流されて行方不明になったことを知った。
すぐにでも捜しに行きたかった。だが、東京電力福島第1原発事故で自宅周辺は立ち入り制限になり、避難を余儀なくされた。大学に通うため仙台市に住んでいたとき、毎月会いに来てくれた優しい父。避難所では声を殺して泣いた。震災から41日後に、父は発見された。
現在、利克さんが見つかった場所は「バリケードが張られ、花を供えるのも難しい」。心の整理をつけるのは簡単ではないが、それでも最近は前を向いて生きていこうと思うようになった。いつも心配してくれた父を悲しませないために。
「尊い命が犠牲になってしまったことを教訓に、二度とこのようなことが起きないよう、向き合っていかなければならない」。この日は、前向きな言葉で締めくくることができた。
≪宮城代表・和泉勝夫さん「生かされた者の使命果たす」≫
追悼式で宮城県の遺族代表としてあいさつした東松島市の和泉勝夫さん(69)は、震災直後、行政区長として避難所の開設準備をしていたときに津波に襲われた。山に逃げ、胸まで水かさが迫ったとき、一本の蔦(つた)にしがみついて生き延びた。だが、母親、りよさん=当時(88)=と妻、悦子さん=当時(65)=を失った。
「未曽有の災害とはいえ、一緒にいてやれなかったことが、残念でなりません」。壇上で声を少し震わせながら悔恨を吐露した。
共働きだった夫婦。「退職後はお互い、好きなことをやろうね」との約束通り、悦子さんはコーラスや絵手紙のほか、婦人防火クラブや読み聞かせなど地域活動にも熱心だった。
突然の1人暮らし。留守中も家の電気をつけっぱなしにするようになった。酒席で友人に明かした。「家は、母と妻のにおいがするのに姿はない。帰るのがつらいから、せめて電気をつけて外出している」
それでも「ボランティアの方々など、いろんな人の力で前に進むことができた」。地元の復興祭など地域活動に積極的に貢献し、昨年(2013年)11月には高台移転計画の部会長に任命された。
妻が引っ張ってくれているように感じる。「残された者、生かされた者の使命として、亡くなられた人たちの分まで精いっぱい生きていかなければならないと思っております」(SANKEI EXPRESS)