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社会
【東日本大震災3年】息子は最期まで精いっぱいやった
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福島県いわき市の豊間地区の追悼式典に出席した工藤功さん(右)弥生さん夫妻=2014年3月11日午後(道丸摩耶撮影) ≪お年寄りを助け津波にのまれた高校生≫
東日本大震災の被災地は3月11日、発生から3年を迎えた。月日は流れたが、遺族の悲しみが消えるわけではない。
時折、あふれる涙を拭った。お年寄りの避難を助け、津波にのまれた福島県いわき市の高校2年、工藤盛人(もりと)さん=当時(17)。父の功さん(54)と母の弥生さん(50)の両親は11日、いわき市豊間地区の追悼式で花を手向けた。
子供の頃は体が弱かった盛人さん。功さんは小学生の息子が台風で打ち寄せる大波を見て「津波が来たらどうする?」と尋ねられた場面を忘れられない。「ここは来ないから心配いらね」と答えたことを、今もずっと後悔している。
震災後、がれきの中から出てきた小学2年時の文集には「自分の家のことまもります」と書いてあった。
「家が大好きだったんです。高校卒業後の進路も、自宅から通えるところがいいと話していました」
弥生さんが目元を拭う。ボランティアが見つけてくれたり、友人たちが持ってきてくれたりした写真で新たに作ったアルバムを繰りながら、功さんが絞り出した。
「盛人…おろかな親で、ごめん」
震災後に引っ越した今の家からは、海は見えない。
あの日、入試時期で高校が休みだった盛人さんを置いて、両親はそれぞれ仕事に出た。弥生さんはその日に限って、息子の昼食にてんこ盛りのチャーハンを作った。上機嫌の盛人さんが弥生さんに言った。
「お昼が楽しみ」。それが最後の会話となった。
激しい揺れの後、弥生さんは自宅に戻ろうとして「ジュースの1本もないとかわいそう」と自動販売機でジュースを買った。みぞれが降り始めた。そのとき漫然と「息子はいないかもしれない」と思った。
トンネルを抜け、飛び込んできたのは衝撃的な光景だった。海も道路もがれきだらけ。盛人さんを捜し回ったが、見つからない。急ごしらえの遺体安置所で、物言わぬわが子と対面したのは翌日だった。元気な17歳に育ったのに…。
なぜ逃げなかったのか。両親の疑問は半月後、氷解する。警察から「福祉施設の男性が盛人さんを捜している」と連絡があり、男性の話で、あの日の盛人さんの行動が明らかになった。
揺れの後、外に出た盛人さんは、土地勘がなかった男性に声を掛け、「手伝いますよ」と施設のお年寄りを担架で高台のホテルまで運んだ。その後「じいちゃんとばあちゃんを助けに行く」と言い残し、海の方へ戻っていったという。
「どうして一緒にいてやれなかったのか悔やんでいたけれど、最期まで盛人が精いっぱいやったと知って、少し納得できました」と、弥生さん。
息子が残したかけらを拾い集める日々は続いた。
友人から「GReeeeNを歌わせたらピカイチだった」と聞いたときは驚いた。机の引き出しに鍵をかけ、親への隠し事も増える年頃。息子のカラオケなど、両親は一度も聞いたことがなかった。
震災時に家に遊びに来ていた別の友人は盛人さんにバスで逃げるよう言われ、バス停まで送ってもらったと証言した。お年寄りを助けたのはその後だろう。
仲違いしたまま永遠の別れを迎えた友人は「今度会う時仲直りできるといいね」と書いた色紙を両親に託した。友人の話には、両親が知らなかった盛人さんの姿が多くあった。
今年1月、同級生は成人式を迎えた。「盛人も一緒に連れていくから」と友人が写真を持って参列してくれた。友人たちの中に盛人さんは確かに生きている。
アルバムをめくると、思い出話をすると、どうしようもない寂しさが募る。それでも、母はこう思う。
「忘れられちゃうほうが寂しいもの」
家族や友人に囲まれ、愛され、あの日まで確かに息子は生きていたのだから。(道丸摩耶/SANKEI EXPRESS)
≪「国民皆が心を一つに」≫
天皇陛下お言葉
本日、東日本大震災から三周年を迎え、ここに一同と共に、震災によって失われた人々とその遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。
三年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は、二万人を超す死者、行方不明者を生じました。今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、困難な暮らしを続けています。さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立入りが制限されているため、多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
この三年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆(きずな)を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて懸命に努力を続けてきました。また、国内外の人々がこうした努力を支援するため、引き続き様々な形で尽力していることを心強く思っています。
被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。