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書物のフェチは文字と紙のフェチ 「束」(つか)と「頁」(ページ)の触感がたまらない 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
本好きにはいろいろなタイプがいる。書棚をきっちり整頓する者、さまざまな本をあたりかまわず雑然と積み上げておきたい者、雑誌のバックナンバーにこだわる者、やたらに古本に溺れる者、辞書や図鑑に執着している者、応接間だけに分厚い本を飾りたがる者…。いろいろタイプはいるのだが、共通しているのは、みんながみんな「本フェチ」だということだ。
フェティシズムとはモノやヒトを“物神”にしたがることをいう。もともとは呪物信仰や物神崇拝をさす宗教用語だったのだが、20世紀ではコモディティ一般のフェチもさすようになった。石にも釣り道具にも、万年筆にもガラス器具にもフェチがある。
本にもそれがおこっている。本フェチの大前提にあるのは、紙が束ねられて綴じてあること、そこに文字(活字)がひそんでページネーションをおこしていること、このこと自体に対するフェチである。つまり「束」と「頁」が好きなのだ。ここまではまちがいない。ところが、ここから各種のフェチが派生した。
函入りの本の堂々とした感覚が好き、その函から上製本を取り出すときのシュポッという音触がたまらない、英語辞書のすべすべのインディアペーパーの紙の薄さにぞっこん惚れている、和綴本をかがっている紐の妖しさに見とれてしまう、カバーを剥がしたときの文庫本の地味なシリーズ装幀が郷愁を誘う…というふうに、本フェチは何がなんでも本のパーツを偏愛するようになっていく。西洋のビブリオマニア(愛書狂)には、深紅のモロッコ革を撫でていると、ついついリビドー(性欲)を感じるという連中さえ少なくない。
ぼくはバックスキンでむずむずしない代わりに、本の小口(こぐち)にめっぽう弱い。紙たちが断裁されて束ねられ、それなのになんともぐさぐさしている感じと、そのくせ互いの裾を揃えてきちんと密集している様子が、なんともいじらしく、いとおしいのだ。ときには、じっと黙ったままぼくを待ってくれていたのかと思ってしまうときがあるのだから、これはまあ、ビョーキだろう。ヤバイのは、そんなふうに小口に見とれていると、もう本を読んでしまったような気になることだ。
文字というもの、ただ読めればいいってものじゃない。本はそれらの乗り物であり、衣裳であって、抽斗(ひきだし)なのである。いまや、たいていの情報はパソコンやスマホで読めて、電子書籍もどんどんリリースされているけれど、それらに決定的に欠如しているのは、やっぱり本のテイストにこだわるフェティシズムの衝動なのである。
ぼくには本を読んでいるときのフェティッシュもある。1ページをめくるたびに、光と影がつくる陰影の微かな動きが知を刺激してくれていると思えるのだ。どんなに電子読書が便利になろうとも、この快感だけは電子には譲れない。(SANKEI EXPRESS)