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【溝への落とし物】私の力尽きるとき 本谷有希子
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もんじゃを食べに月島へ寄った時の一枚=2014年6月28日(本谷有希子さん撮影) もう答えが決まっていることを、わざと先延ばしにしてしまう癖がある。私は心配性で、びびりだから、なるべく遅く決断することで失敗するリスクを少しでも回避しようとしてしまうのだと分かっていても、やめられない。このあいだ、知り合いから保護された子猫を預かったのだが、飼うか飼わないかの大事な決断をするのが嫌で、私はいけないと思いながらも、のらりくらりと迷ったふりをしてしまった。そして、最終的に飼いたいと告げたとき、「そうなることは最初から分かってたよ」とその知り合いに言われて、はっとした。何日もかけて悩んだことが、急にものすごく無駄なことに思えたのだ。
たとえば、私がしていることは、ひと思いに楽にされることを拒絶して、一日一回ずつパンチをされて一生痛めつけられる方法を選んでいるのと同じなのではないか。そして、地下室で謎のパーティーが始まっているとき、エレベーターで行くか、螺旋(らせん)階段で行くか、という選択を悶々(もんもん)としているようなものなのではないか。多くの人は興奮と不安を抱きながら「えい」とエレベーターに飛び乗ることにためらいを覚えないだろう。
でも、私のような人間は、散々迷った挙げ句、いつでも逃げ出せる螺旋階段を選ぶのだ。そして一段一段、「よし、大丈夫。よし、大丈夫」と下を覗(のぞ)きながら足を進めて、ときには戻ったりもしながら、地獄の釜をできるだけ縁から覗き込むように、おそるおそるパーティーの全貌を明らかにしていく。これならいつ気が変わっても帰ることができて安心だ、と私は自負するのだが、ただし、このやり方には一つ、大きな問題があって、それは「到着したころ、パーティーはほとんど終わっている」。
そのやり方で一生いくつもりか、と問われれば、それはちょっと、と答えに窮する。パーティーの損失はもう十分だ。私だってみんなと腰をぐねんぐねんさせながら、テキーラをぐっと煽(あお)り、「ホッホー」などと叫んで乱痴気(らんちき)騒ぎをしたい願望くらい、人並みに持ち合せている。しかも、その抑圧によるフラストレーションからなのか、私は突然、人が驚くほどのノリの良さを発揮することもある。
イベント中に天井から大量の水が降れば、「ああ! 大変、濡れなきゃ!」と叫んで誰よりも先に走り込んでパンツまでびしょびしょにしてしまうし、メキシコ料理屋でトルティーヤを食べている途中にダンサーのショータイムが始まれば、「私が盛り上げないと」という謎の使命感にかられ、ステージ上で観客代表として、見よう見まねのサルサを脇目も振らず踊り続ける。だが、その1時間後に、2度目のショーが繰り返され、「こいつはノリがいい」と味をしめたダンサーたちに再び誘われると、「それはちょっと」と、別人のように素知らぬふりを決め込んで、トルティーヤから肉を剥(は)いでしまう。
この歳になって、自分を変えたいなどというのは、きっと贅沢(ぜいたく)なことなのだろう。うじうじ悩まず、それも個性だと受け止めていくべきだし、大体、この世の人間すべてが楽観的になってしまえば、それもまた深刻な問題ではないか。
せめて、死ぬ間際に自分が出席するはずだったパーティーが一体どんなパーティーだったか、知る権利ぐらいあればいいのに、と思う。
「知りたいか、知りたくないか」と訊かれ、「知りたい」と答えた人間だけが、よかったパーティーの数と悪かったパーティーの数をこそっと耳元で教えてもらえるのだ。たった一つでも後者のほうが多ければ、私は「ほうら、やっぱり」と安らぎの笑みを浮かべながら永遠の眠りにつくに違いない。
もし前者が勝っていたら、とだけは想像したくない。今まで逃した無数のテキーラが、乱痴気騒ぎが、ぐねんぐねん踊りが、こと切れる寸前の私の目の前を蝶のように横切っていく時のことなど考えたくない。無念すぎる。
だが、ここで私は大きな間違いを犯している。そもそも、そんな重大な選択を私が下せるはずがないのだ。「知るか、知るまいか」と迷った時、私はきっと先延ばし人間の本領を発揮し、のらりくらりはぐらかすに違いない。螺旋階段を降りるように、じっくりじっくり悩みながら、私は力尽きていくのだろう。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子、写真も/SANKEI EXPRESS)