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祇園祭 150年ぶり「大船鉾」 荒波越え凱旋 都大路に歓声

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祇園祭 150年ぶり「大船鉾」 荒波越え凱旋 都大路に歓声

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約150年ぶりに山鉾巡行(やまほこじゅんこう)に復帰して、町内へ凱旋(がいせん)する大船鉾(おおふねほこ)。鉾に乗り込んだお囃子(はやし)方は扇子を大きく振って声援に応えた=2014年7月24日午後、京都市下京区四条町(田中幸美撮影)  細い路地の先に姿を現した大船鉾(おおふねほこ)がゆっくりと船頭を90度転回する「辻回し」を始めると、集まった人々から「オー」という大きな歓声が上がった。京都市下京区四条町(しじょうちょう)が擁する大船鉾。幕末に焼失して以来、約150年ぶりに再建を果たして7月24日、晴れて山鉾巡行(やまほこじゅんこう)に復帰した。午前8時の“船出”から約4時間、都大路を埋め尽くした人々にその雄姿を焼き付け、町内へ“凱旋(がいせん)”したのだ。

 四条町に到着してもお囃子(はやし)は鳴り止まず、あちこちから「おめでとう」の歓声が上がり、割れんばかりの拍手に包まれた。中には感激のあまり目頭を押さえる人も。四条町大船鉾保存会の松居米三(よねぞう)理事長(81)は鉾から降りると「みなさんの声援がうれしかった。600年以上も前のご神面(ご神体)と一緒に巡行できたのは最高に光栄です。復活は神様の力」と感慨深そうに話した。

 日本三大祭の一つで、京都の夏の風物詩、祇園祭は今年、大きく祭りの形を変えた。これまで(7月)17日の1日だけだった山鉾巡行を、大船鉾の復帰を機に、(7月)17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭(あとまつり)の2日に分けて行った。後祭の復活は実に49年ぶりという。本来の祇園祭の形に戻った。

 大船鉾の歴史は古く、応仁の乱(1467~77年)以前に起源を持つ。前祭の「船鉾」と同様、神功(じんぐう)皇后の海外出征を題材とする。船鉾が「出陣の船鉾」と呼ばれるのに対し、大船鉾は戦勝して帰還する様子を描いたことから「凱旋の船鉾」と呼ばれる。平成の大船鉾は、全長7.47メートル、高さ6.25メートル。重さ12トン余り。船体は主にヒノキで造られた。

 ≪再建で生まれた絆 新たな歴史へ船出≫

 応仁の乱と天明の大火(1788年)で鉾は焼けて失われたが、そのたびに美しくよみがえった。その後、幕末の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(禁門の変・1864年)で再び被災。幸いご神体や江戸時代の文化期に集められた豪華絢爛(けんらん)な懸想品(けそうひん)は無事だったが、屋形の大半を失い、巡行に参加しない「休み山」となった。

 町ではご神体と懸想品を飾って神事を執り行う「居祭(いまつり)」を大切に守り続けた。しかし、高齢化と人口減少などにより祭りの担い手が減り、居祭の継続が困難になって1995(平成7)年に居祭を中止。

 これに危機感を持った若手が中心となってお囃子の復活を模索した。町内だけでなく広く一般にお囃子のメンバーを募集して取り組み始めた。町内の長老たちは「どうせ2、3年で諦めるだろう」とたかをくくり、若手は「お囃子を復活させたら居祭ができる」と信じてのことだったという。

 岩戸山(いわとやま)の囃子方に手ほどきを受けてめきめきと上達、オリジナルの曲を作るなどしてレパートリーは約30曲に。連帯感も生まれ、次第に町内の神事全般に関わりたいという者も出てきた。

 2007(平成19)年、大船鉾のご神体や舵、前掛けや水引きなどの懸想品計121点が市の有形民俗文化財に指定されたことをきっかけに居祭が復活。この頃から鉾の再建が話題に上り始めたが、町内で意見がまとまることはなかったという。

 しかし09年、転機が訪れた。「京都祇園祭の山鉾行事」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録され、大船鉾も含まれたのだ。これが再建・復活を大きく後押しした。市が大船鉾の模擬鉾を展示する計画を持ちかけたのだ。本物を作ろうという機運が生まれ、そこからはとんとん拍子だった。150年目の節目の14年に復帰する目標も掲げた。

 市内の経済団体が船の屋形部分や木組み部分を、菊水鉾(きくすいほこ)保存会は車輪や車軸などの足回りを寄贈。さらに、全国からも1000件を超える寄付が寄せられた。そして12年にはご神体を木製の箱に入れて巡行する唐櫃(からびつ)巡行を行い、復興への足掛かりとしたのだ。

 「ただ鉾を造っただけではありません。人と人とのつながりがあってできた。鉾の再建で絆が生まれた」と松居さん。時代の荒波をくぐり抜けてよみがえった大船鉾は、これから新たな歴史を刻んでいく。(文:田中幸美(さちみ)、写真も/撮影:安元雄太、恵守乾(えもり・かん)/SANKEI EXPRESS

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