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【逍遥の児】根岸の子規庵にてもの想う
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夏の週末。子規庵へ。東京都台東区根岸。JR鶯谷駅で下車。北口から歩く。路地を抜ける。小さな門。ここだ。
俳人、正岡子規は幕末、四国の城下町、松山で生まれた。青雲の志を抱いて上京する。突然、喀血(かっけつ)した。肺を病んでいたのだ。だが、青年はたじろがない。俳号を決した。子規。ホトトギス-の意。彼の鳥は激しく鳴く。鳴いて血を吐くという。自らの境遇と重ね合わせたのだろうか。
日本新聞社に入社した。従軍記者として日本刀を背負い、戦地に向かったこともある。根岸に居を構えた。「加賀百万石の大名だった前田家の敷地内に建つ2軒長屋を借りて暮らした。20坪ほどの庭もありました」
根岸子規会会長、奥村雅夫さん(66)が静かに語る。句が残る。
――加賀様を大家に持って梅の花
少々、得意そうな顔が目に浮かぶようではないか。
現在の子規庵は戦後、再建された。門をくぐる。玄関を上がる。8畳間。ここで句会が開かれた。また、夏目漱石、森鴎外、伊藤左千夫、与謝野鉄幹ら文士が集い、明治文学の原点となったという。
隣が6畳間。庵主の寝室兼書斎。庭に面して机が置かれている。不思議な構造。板の一部が、くりぬかれているではないか。
「晩年、子規は膝が不自由になった。立て膝をしたまま、使えるよう特別注文して作らせたのです。複製です。実物は、土蔵のなかに大切に保管しています」
子規をまねて、立て膝で座る。眼前。こよなく愛した庭。棚。青々としたヘチマがぶら下がっている。彼は、たんを切るため、ヘチマの汁を飲んだ。
1902(明治35)年9月18日。病床。子規は門弟らに支えられ、体を起こした。筆を持つ。紙に3句、書き記した。最後の句。
――をととひの へちまの水も 取らざりき
筆を投げ捨てるかのように置いた。穂先のほうから白い寝床に落ちていったと伝えられる。
その夜。昏睡(こんすい)状態に陥った。翌未明死去。34歳。死の前日まで句作に打ち込んだ。なんたる壮絶。(塩塚保/SANKEI EXPRESS)