ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
トレンド
あの8月6日の朝を迎える前に 井伏鱒二の問題作『黒い雨』をめぐって 松岡正剛
更新
【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影) ぼくが井伏鱒二に開眼したのは『さざなみ軍記』からだ。平家物語のいくつかのストーリーを絵巻ふうのスケッチにしたような組み立てで、当時の公達(きんだち)の日記を作者が現代語に仕立てているという手法だ。『黒い雨』はこれを踏襲している。
舞台は広島市外。時は原爆が落ちてから5年目。鯉の養殖をしている重松という男が、自分が引き取った姪の矢須子の結婚を心配している。矢須子が縁遠いのは原爆症の噂のためで、重松は見合いがきたら相手を納得させる診断書も用意した。ところがそれがヤブヘビで、仲人は原爆投下の日の矢須子の足取りを知りたがった。そこで姪の日記を読むことにした。小説は重松がそれを清書しながら、あの日に戻っていくというスタイルになっている。
矢須子はそのとき疎開のための荷物を運んでいて、直接の被爆を受けていない。けれどもその帰路に瀬戸内海上で泥めいた「黒い雨」を浴びていた。そういうことがわかってきたとき、縁談は先方から拒否された。そのうち矢須子に原爆症があらわれた。
重松は自分がしていることに矛盾と疑問を感じるのだが、なんとかこの清書を続けることが自分の生きる意志だと思う。小説の終わり近く、重松が眺める川をウナギの幼生がきらきらと泳いでいる。あの日の前後にもそんな川の輝きを覗いていた。「黒い雨」はウナギには何をもたらしたのかと、重松は思った…。
石牟礼道子さんは、この小説を「魔界から此岸にふっと抜ける蘇生」というふうに呼んだ。原爆の殺人光線の中で、生命は次の世代をつくったのである。『黒い雨』はそれを陽光眩しい井伏節にしたものだった。
「日本の原爆文学」という全集がある。大江健三郎・小田実・伊藤成彦らが世話人の「反核文学者の会」が編集構成して、全15巻でほるぷが発行元になった。原民喜『夏の花』『心願の国』、大田洋子『屍の街』『暴露の時間』『半人間』、堀田善衛『審判』、井上光晴『地の群れ』、長田新『原爆の子』、峠三吉『原爆詩集』のほか、小田・大江らの作品のほとんどが収録された。ところが最初は1巻分を予定していた『黒い雨』が落とされ、阿川弘之・田中小実昌からは反核の会の主導には賛同できないと拒絶され、有吉佐和子や後藤みな子も断ってきた。
井伏が落ちた理由はいまだに詳(つまび)らかになっていない。原爆文学とはいえ、1982年の時点の話なのだが、前途多難だったのだ。いまでも中沢啓治の『はだしのゲン』の蔵書や展覧が図書館の問題になっている。
先日、ぼくは広島出身の為末大君らとともに、三菱商事・リクルートなどのビジネスマン30人を連れて原爆記念館を訪れた。みんな押し黙っていたが、誰も『黒い雨』を読んでいなかった。まだ戦後は終わっていないようだ。
連載当時は『姪の結婚』だったが、途中から『黒い雨』に変更された。めずらしいケースだ。重松静馬の『重松日記』と被爆軍医だった岩竹博の『岩竹手記』がもとになっている。ストーリーは上にかいつまんだようになっているが、のちに猪瀬直樹は「井伏は重松日記を引き写したにすぎない」と批判した。こうした点が議論になって、全16巻予定の「日本の原爆文学」が15巻になったのだった。しかし、ぼくは『黒い雨』を誰もが読むべきだと思っている。
広島幟町に生まれた原民喜は、11歳で父を亡くして極端な無口になり、その後はずっと詩を書き続けて慶応の英文科で辻潤やダダに憧れる青年になっていた。1945年1月に広島に疎開したのだが、生家で被爆して二晩野宿、生きながらえた。その惨状を綴ったのが傑作『夏の花』である。その後、東京で夜間講師をしながら糊口をしのぎ、1950年の朝鮮戦争に嗚咽して『家なき子のクリスマス』を書いた。翌年、中央線で鉄道自殺した。悼(いたま)しい。
「あの朝/何万度かの閃光で/みかげ石の厚いたにサッと焼きつけられた/誰かの腰」「燃えあがる焔は波の面に/くだれ落ちるひびきは解放御料の山麓に/そして/落日はすでに動かず/河流はそうそうと風に波立つ」「崩れる家にもぎとられた/片腕で編む/生活の毛糸は/どのような血のりを/その掌に曳くのか」「ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ」 これが峠三吉だ。
大田洋子は尾道や広島で女給をしながら小説を書いていた。長谷川時雨に認められて「女人芸術」に作品を発表してその才覚が開花したのだが、疎開中の広島で被爆したのちは『屍の街』『人間襤褸』で原爆作家と呼ばれた。大田の描写力は爆心を描くのではなく、爆風の及ぶところを綴った。広島の基町の文学碑には「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のように叫びながら/歩いていった」と刻まれた。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)