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【取材最前線】今よみがえる延長十八回の熱投

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【取材最前線】今よみがえる延長十八回の熱投

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 1969(昭和44(1969)年8月18日、当時小学3年生の私は半ズボンの膝小僧を抱えながら、自宅の白黒テレビのブラウン管に映し出される試合時間4時間16分に及ぶ激闘を見つめていた。

 この年、夏の甲子園の全国高校野球大会決勝は三沢高(青森)と松山商(愛媛)が対戦。試合は0-0のまま当時の規定によって延長十八回で引き分け、決着は翌19日の再試合に持ち越されたのだった。

 この試合だけで232球、翌日を合わせると計27イニング383球を1人で投げ抜いたのが当時の三沢高のエース、太田幸司さんだった。再試合は2-4で敗れ、東北悲願の優勝旗を持ち帰ることはできなかったが、その力投ぶりは強く印象に残った。

 あれから45年、運動部で野球を担当する私はこの8月に太田さんをインタビューする機会を得た。日本高野連が春夏の甲子園大会へ導入を検討しているタイブレーク方式について意見をうかがうためだった。

 延長戦に入れば、最初から走者を置いた状態で双方のチームが攻撃を行うタイブレークは球児の健康状態を考慮し、試合を早く終わらせるためのルール。あの松山商との熱戦を演じた太田さんほど、その是非を語ってもらうのにふさわしい人物はいないと考えた。

 予想通り、太田さんはタイブレークには「反対」の立場だった。「ボロボロになるまで死力を尽くすのが高校野球だし、それがファンに愛される理由」とその主張は明解だった。

 あの延長十八回を投げ終えた翌朝、宿舎で目覚めた太田さんはすぐには布団から起き上がれなかったという。「背中に鉄板が入っているように重くて。再試合でマウンドへ立てるのかどうか心配だった」と振り返る。

 「洗面所では腕が上がらず、仕方なく顔を手のひらへ近づけて洗った」という太田さんだが、2日で383球の投球には何の疑問も感じなかったとする。「当時の高校野球はエース1人が投げ切るのが当たり前だったから」

 タイブレークについては「少なくとも甲子園の本大会ではやってほしくない。もし、決勝がタイブレークになって決着がついても、だれが納得しますかね?」。あの引き分け再試合を経験した太田さんの言葉だけに説得力を感じた。(三浦馨/SANKEI EXPRESS

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