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【タイガ-生命の森へ-】森で焚火 心温まるひととき
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手際よく火を起こすリョーバ。森での焚火はわくわくする=2014年10月4日、ロシア・クラスヌィ・ヤール村(伊藤健次さん撮影) 枯れ木の皮に火をつけると、積み重ねた薪の間からメラメラとオレンジ色の炎があがった。乾いた木はパチパチと小気味よい音をたて、あっという間にタイガの焚火(たきび)が始まった。
先月(11月1日付)、タイガの入り口にあるクラスヌィ・ヤール村から一家総出でチョウセンゴヨウの実を拾いに出かけた話を紹介した。そこでの焚火がとても心に残った。
チョウセンゴヨウの実を袋いっぱいに集めてひと汗かくと、子供たちが枯れ木を集め、適当な長さに折り始めた。年配のリョーバがその薪を重ねて躊躇(ちゅうちょ)なく火をつける。さらにY字の枝を組んでその上にしっかりした長い枝を掛け、すかさず水をくんだ鍋を釣り下げた。その手際のよさにほれぼれする。
森の中での焚火は慣れていないと山火事が怖い。実際ロシアでは雷やたばこの不始末などで毎年広大な森を燃やしてしまうのだが、この村人にとってタイガでの焚火はまさに日常茶飯事。その流れるような手つきに感心している間にポコポコと湯が沸き、火を囲んでの心温まる一服である。
森でひと仕事した後、焚火を囲んでお茶を飲む-。まったく何気ないひとときなのだが、いつの間にか日本では見なくなった風景ではないだろうか。
≪晩秋の空に煙は消えていった≫
チョウセンゴヨウの松ぼっくりは大人の手にあまるほど大きく、袋いっぱい集めれば25キロほどになる。ウデヘの青年はそれを2つ、つまり約50キロを担いでタイガの急斜面を何度も往復する。相当な力仕事だ。当然おなかも減るし、うまく休憩しながらでなければ仕事は続かない。
子供たちは凍ったまま持ってきたソーセージを枝に刺して焼き、「焦げた」「まだ生だ」といっては笑い転げている。熱いラーメンをすすりながらの休憩がとても楽しそうだ。大人もお茶をいれつつロシアならではの小話で盛り上がる。これが最高の息抜きなのだろう。
焚火(たきび)は不思議だ。ただその脇にたたずみ、炎を眺めているだけで気が休まり、時間がたつのを忘れてしまう。過去の出来事がとりとめもなく脳裏をめぐってゆく。僕は北海道の沢登りで仲間と囲んだ焚火や、シマフクロウの鳴き声を聞きつつ眺めた知床の浜の焚火を何だか昨日のことのように思い起こした。
そして森で成長し、枯れていった木を焚(た)くことが、一層この土地との一体感を醸し出しているような気がした。煙が立ち上る先を見上げると、チョウセンゴヨウやヤチダモの大木までもが火を囲むようにそそり立っている。晩秋の空に溶け込むように煙は消えてゆく。それを眺めながら、僕は焚火の香りを深く吸って、長い息を吐いた。
ハバロフスク在住の著名な画家、ゲンナジー・パブリーシン氏は、沿海地方の自然や少数民族の伝統文化を好んで描き、日本でもデルス・ウザラーの絵本や「鹿よ おれの兄弟よ」(神沢利子作・福音館書店)の挿絵などで知られる。僕の大好きな画家で、彼の絵には河原や森で焚火を囲むひと時代前の人々の姿が随所に描かれている。
今、こうして村人が焚火を囲む姿を見ていると、時代は進んでも、タイガで火をおこし、焚火を囲む時間を大切にする文化は、ビキンの森では何ら変わっていないように思える。「焼けたわよ」。火がいい燠(おき)になった頃だ。ホームステイ先のアンナが焚火の脇に転がしておいたチョウセンゴヨウの松ぼっくりを拾い、実を取り出してくれた。まだ熱い殻をカチッと歯で割り、なかの実をほおばる。香ばしい甘みがじわっと口の中に広がった。
皆がまた腰を上げ、チョウセンゴヨウの実を探しに森の奥へ向かっていった。アンナは彼らを見送り、だんだん小さくなってゆく焚火の周りを最後まできれいに後始末して出かけていった。(写真・文:写真家 伊藤健次/SANKEI EXPRESS)