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専門知識は不要 まるでわくわくする冒険譚 乾ルカ
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現在、札幌大通公園ではミュンヘン・クリスマス市が開催されています。母が撮影した1枚です=2014年12月5日、北海道札幌市中央区(乾ルカさん提供)
小学校5、6年生のときの担任は、穏やかでとても優しい男の先生でした。小学生の目からは、かなりなオジサンに見えましたが、今振り返ると、現在の私と同じくらいの年だったかもしれません。
その担任T先生は、年度替わりの前に生徒一人一人に小さな賞状をくれました。勉強ができる、運動ができるなどわかりやすい優秀は、一握りの限られた子のものです。でもT先生は「この子はこういうところが他の子に勝る」という美点をクラス全員の子にそれぞれ見つけ、賞状にして認めてくれました。
掃除をきれいにやる。
元気がいい。
忘れ物をしない。
生き物の世話が上手。
私が子供だったころ、一クラスの生徒数は今と比べ物にならないほど多く、40人近くいたので、先生は大変だったと思います。
私がもらった賞は『笛』でした。
当時私はソプラノリコーダーが、それなりに得意だった…みたいです。
私よりもリコーダーがうまい子はいたはずですが、たぶん彼、彼女らは、もっとわかりやすい王道の賞をもらったのでしょう。でも、何の取りえもない大勢の中に埋没していた私にも認められるところがあったのだと、当時その小さな賞状をとてもうれしく感じました。
そして、音楽が好きになりました。
音楽に関連する本は山のようにありますが、世界的に活躍されている日本の指揮者、小澤征爾さんが書かれた自伝的エッセー『ボクの音楽武者修行』は、音楽に関する専門知識を必要とせず、読みやすさという点においては傑出している作品だと思います。もちろん、読みやすいだけが本書の魅力ではなく、若き日の小澤さんが音楽を志し、スクーターとともに貨物船に乗り込み、単身ヨーロッパに旅立つという出だしからして、若さならではの熱量にあふれていて、読んでいてわくわくします。青春期の人間のみが成し得る冒険譚、といった感さえ漂います。
ヨーロッパ(マルセイユ港)に着いてからの、スクーターでの移動の様子も、実に自由で大らかです。
『五キロおきに人間のつきあいができ、五キロおきに地面に寝転がって青い空を眺めた。目に沁みるような青い空だった。そして美人に会うとゆっくり観察し、うまくいくと一緒にお茶を飲むこともできた。』
初めての異国での、頼るものもないたった一人の旅。マルセイユに着いた当初の語学力について筆者は、『ぼくのフランス語はとんでもなく下手』と書かれています。不安要素を数え上げればきりがないはずなのに、なんと楽しそうなのか。初読時、ニューヨークへ旅行に出かけたはいいものの、英語がまったくわからず、異常に寡黙な4泊6日を過ごした直後だった私は、エッセーから伝わってくるこの明るく晴れ晴れとした感じに、ひどく驚かされたものでした。
ブザンソンの国際指揮者コンクール一等入賞を足掛かりに、筆者は世界的指揮者への長い階段をどんどん駆け上がっていきます。後半になると、カラヤン、バーンスタインなどといった大御所の名前も登場します。一般の人間との埋められない溝が実はそこにはあるのですが、ヨーロッパでの生活の様子や、要所要所で挿入される家への手紙文とともに、肩ひじ張らないユーモアのある文章で書かれるので、気後れすることなく読み進められます。
また、指揮者コンクールで課せられる課題のくだりは、実に興味深いものでした。オーケストラを聴きに行くと、指揮者はただタクトを振っているだけに見えなくもないのですが、もちろんそんなわけはなく、すべての楽器の音を聞き分けて指示を出しているのですね。どんな聴感覚を持っているのか想像もつきませんが、指揮者ってこんなにすごいことをクリアして当たり前なのかと、感服せずにはいられません。
最後に中盤のこの一節を紹介したいと思います。小澤さんが武者修行に出たのは、まだドイツが東西に分かれていたころ。移動の途中でボンを通り、戦争の生々しい跡とそこに咲く花を目にしたときの文章です。
『戦争はまだ終わっていないし、これからも起こらないとはいえない。どうして、もっとこの世には美しい音楽があり、美しい花があるということを信じないのだろうか。』
私はこの一節がとても好きです。(作家 乾ルカ/SANKEI EXPRESS)
「ボクの音楽武者修行」(小澤征爾著/新潮文庫、464円)