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作家の穏やかさと爆発力感じる場所 「赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで」 椹木野衣
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昨年、美術家の赤瀬川原平が世を去ったのは、千葉市美術館を皮切りに、本展の全国巡回が始まる、わずか2日前、10月26日のことだった。
いま「美術家」と書いたけれども、赤瀬川は、そのような枠の中だけで語れる作家ではとうていない。文壇では尾辻克彦の名で書いた短編小説『父が消えた』で第84回芥川賞を受賞(1981年)。随筆『老人力』(98年)は、版元の筑摩書房始まって以来の大ベストセラーとなり、同年の流行語大賞に輝いた。マンガやイラストも数多く手がけ、趣味で没入した中古カメラを持ち寄り、高梨豊、秋山祐徳太子と「ライカ同盟」を結成。さらには、教育者としても在野の美術学校「美学校」の講師を長く務め、南伸坊、渡辺和博、泉昌之ら異才を輩出している。
こうした異分野での活躍は、とかく肩書で評価されがちな日本の文化シーンでは、どうしても分断されがちだ。赤瀬川の前衛美術に関心がある人は、彼の小説を読んでおらず、老人力やライカ同盟で赤瀬川に馴染んだ人は、かつて紙幣(旧千円札)をモチーフに制作した作品で、偽造(模造)紙幣の嫌疑をかけられ、ついに最高裁判決にまで至った事件を知らない。
加えて赤瀬川は原平、赤瀬川克彦、尾辻克彦としばしば名を変えている。一連の仕事が同一人物によるものと気付いていない人だって、少なくはなかろう。
本来であればこの展覧会は、ここまで多岐にわたる赤瀬川の仕事を、一人の芸術家の名のもとに一望する「経過報告」を得るためのものだった。副題に「1960年代から現在まで」とあるのは、そのためだ。けれどもこの趣旨は、展覧会開催の直前に、突如として意味を失った。「赤瀬川が消えた」からだ。そのことで同展は、突如として途中報告ではなく遺作展となった。
いくら病床にあったからとはいえ、本展が、そのことを前提に作られているはずがない。おのずと、展示の内容や図録の構成、広報の文言と現実とのあいだには、微妙だけれども、決して埋まらない溝が生まれた。
このことをはっきりさせるため、私は、都心からは利便であった千葉市美術館での展覧会には、あえて足を運ばなかった。その代わり、赤瀬川の事実上の故郷と呼んでいい大分市へと足を運んだ。そして、市の高台にある大分市美術館で開催中の巡回展へと向かった。赤瀬川が高校時代までを過ごし、先日、弟のあとを追うように他界した、実兄で小説家の赤瀬川隼が繋(つな)いだ縁で、初めて美術と出合った場所だからだ。
一口に巡回展と言うけれども、個々の美術館の施設の違いはもちろん、開催される当地ならではの歴史が持つ風土や特色と、そこで展覧会を見るという体験は、本来、切り離せるものではない。地域ごとの固有性や観光遺産を、積極的に展示や表現に活かしていこうという傾向は、近年、ますます強くなってきている。見る者に、同じ鑑賞体験を、全国どこでも等しく与えるはずの巡回展といえども、同様に考えられるようになりつつある。千葉には千葉の、大分には大分の、そして巡回の終点である広島には広島の、それぞれの赤瀬川原平展があるはずなのだ。作家が故人となった今では、なおさらだろう。
展覧会そのものについては、赤瀬川が亡くなったことも加わり、さまざまな雑誌や媒体で、大きな特集や特別記事が立て続けに組まれたので、ここでは細部には触れない。大分で赤瀬川を見るという体験で、いま通奏低音のように私の心をつかんで離さないのは、美術館から眺めたある風景だ。
午前と午後を費やして、展示のすべてを舐(な)めるように観たあとで、休憩所の椅子に座ると、その対面に、パノラマのようにとられた大きなガラス窓が広がっていた。そこから望めるのは、別府湾から由布岳に至る、火山が形作った山々の連なりと、海の迫り具合だった。なるほど、火山か。実に赤瀬川らしいではないか。そう私は思った。火山は、ふだんは風光明媚(めいび)な景色の一部で、その恵みの象徴である温泉のように、私たちの心身をともに温めてくれる。しかしひとたび噴火すれば、周囲を恐るべき危機にさらし、ときには人の命運さえ左右してしまう。けれども、やがてまた、それらのすべてが嘘のように静まるのだ。
赤瀬川本人も、ふだんは心温まる趣味人であった。実際にお目にかかっても、過激そうなところなど、なにひとつ感じられなかった。その同じ人物が、あるときは千円札の模型作品で国家の裁きを受け、またあるときは「櫻画報」での筆禍によって『朝日ジャーナル』を自主回収・一時休刊にまで追い込んだのだ。まるで火山のような表現者であった、と言うほかない。(多摩美術大学教授 椹木野衣(さわらぎ・のい)/SANKEI EXPRESS)