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【溝への落とし物】万が一に備えすぎて 本谷有希子
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道の真ん中で、おしっこをしている最中の猫=2014年12月28日(本谷有希子さん撮影) こないだラジオで話したことが呼び水になって、幼い頃、自分がいつ巻き込まれるともしれない犯罪に備え、日々あらゆる訓練に余念がなかったことを思い出した。
たとえば、車のナンバー。誰かの誘拐現場を目撃したときに犯人逮捕の決め手となる証言を、なんどきもできるようにと、私は普段からなにげなく目に入った車のナンバーの数字を瞬時に記憶する特訓を繰り返していた。「わ00-25」なら「わわわ、おおにご!」と心の中で叫ぶ。そして「ニゴ」という謎の生き物、しかも特大サイズの「大ニゴ」が発見された世紀の瞬間をイメージし、発見者である少年が腰を抜かして驚いているヴィジュアルを、鮮明に記憶に焼き付ける。
家に帰ってからも、覚えているかどうかを抜き打ちで自分にテストし、朝になっても忘れていなければ、手帳に合格シールを貼っていいことにしていた。
または、もし、茂みの向こうで息を殺している犯罪者に気づいてしまったら、という状況の場合。そういう時は、まず鼻歌をハミングし、いかにも何かを探しているように地面の辺りに視線を走らせる。そして後方にさっと手を振ると、「おおーい、この辺、ちょうどいいんじゃなーい?」と声を張り上げ、自分には大勢の仲間がいることをそれとなく、だが確実にほのめかすのだ。
この際、注意しなければいけないのは、声のボリュームだ。小さすぎれば、なかなか他の人間が現れないことに疑問を持たれてしまうし、大きすぎても、みんなが来る前になんとかしようと焦った犯人に行動を起こされてしまうかもしれない。声をかけている対象が近くとも思えるし、遠くでもあるような、そんな絶妙な発声技術を習得するために、当時の私はせっせと風呂で練習した。おかげで、一人なのに大勢いるように見せかけることにかけては、学校一だと思っていた。
だが、それよりもさらに、私には力を入れていた練習があった。これは、もし夜中に目を覚ました私が、廊下を横切ろうとする見知らぬ男を薄闇の中、目撃してしまった状況に備えて考え出されたものだ。目を閉じ直して寝たふりを続けたいが、男は完全にこちらに感づいてしまった。体の向きを変え、ゆっくり寝室に近づいてこようとしているのは、顔を見られた以上、私を生かしてはおけないと男が考えているからだ。男の手には何か血の付いた鈍器のようなものが握りしめられている。あれが、私の頭に振り下ろされるのだろうか…!
しかし私は布団をめくりあげ、ベッドから身を起こす。「お父さん、どうかしたーん?」と寝ぼけ眼を擦りながら、ベッドから危なっかしげに降り立ち、様子をうかがっている犯人のほうへ歩き出す。そんなことができるのは、目の前のものにまるで焦点をあわせずに近づく技術を、この日のために身につけていたおかげだ。そして、犯人の息がかかるほど近い距離を、堂々とすり抜けた私は「もー静かにしてよー」と廊下に向かって一声掛けたあと、悠々と自分のベッドに潜り直す…。「犯人の顔を目撃していないと、犯人に思い込ませる技術」である。
だが結局、私が誘拐犯に、茂みに潜む男に、不法侵入者に遭遇することは一度もなかった。よかったと思う半面、あの技術は今も衰えていないのに、これでは宝の持ち腐れであるような気がしてならない。
いっそ、心配性の子供たちにレクチャーしてみるのはどうだろう。他にもいざというときのマニュアルはいろいろあるのだ。
「痴漢に『こいつはなんかいいや』と思わせる技術」や、「いざというとき、腕一本を犠牲に差し出す勇気」など、いつか誰かが役立ててくれれば、子供の頃の私もさぞかし本望に違いないと思うのだが…。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS)