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【溝への落とし物】ありがとう事情、最前線 本谷有希子
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旅で出会った子猿=2014年12月29日(本谷有希子さん撮影) 携帯のLINE機能を通じて、友人や家族と気軽にやりとりをしていると、時折、現実の自分との人格の乖離(かいり)に気づいて、ぎょっとすることがある。
日常、相手と顔を合わせていれば、とてもじゃないが口にしないような、いたわりの言葉や褒めそやすフレーズが些細(ささい)なやりとりの間に何度も出てくる。自分をよく知る家族間での内容さえそうなるのだから、グループの人数が大所帯になるほど尚更(なおさら)だ。
しかし、どうやらそうなっているのは私だけではないらしい。実際の人柄を知っているあの人もこの人も、補整がかけられたように素直で、優しくて、いい人間になっているではないか。一体これはどうしたことか。なぜ、私たちのバラバラなはずの性格は、魔法がかかったように統一されてしまうのだろう。
小説には、ついついネガティブな人や感傷的なことを書きたくなってしまうエネルギーのようなものが存在すると思っているけれど、このLINEというのも同様に、ポジティブなことや自分の『善』の部分しか出せなくなる、なんらかの力が働いているような気がしてならない。あの爽快な青空を思わせるブルーの背景も、「いい人だよ~、お前たちはいい人だよ~」という暗示を私たち全員にかけようとしているのではないか。
ところで、この問題が厄介なのは、「それが悪いことなのか、いいことなのかよく分からない」という部分のような気がする。これが二言目には罵詈(ばり)雑言を吐いてしまうような、悪の部分が引き出されているのなら、大いに問題だろう。
けれど、ことはそう単純ではない。たとえばLINE上には「ありがとう」という言葉が飛び交っているが、誰もそのことについてひっかかったりしないのは、「ありがとう」は言ったほうも言われたほうも幸せになると私たちが知っているからだ。小さい頃から「ありがとう」と言われて、嫌な気持ちになる人は一人もいない、と教えられてきたからだ。
しかし果たして、本当にそうなのだろうか。本当にみんな「ありがとう」と言われて嫌な気持ちになったりしたことが、一度もないのだろうか。現に私は今、自分の胸にじっくり手をあてて考えてみたが、いくつかの場面で思わぬ「ありがとう」の軽さに傷ついたことを思い出した。見るからに形だけの感謝や、たった数秒で送り返されたthank youスタンプに、もやもやとしたわだかまりを覚えたことも、一度や二度ではなかった。
ならば、今度は自分が礼を述べる側の立場だった場合はどうだろう。何も考えずに、みんながお礼を言っているからと、自分も便乗してしまったとき。ここで言っとかないとひんしゅくを買うかもなあ、とか、嫌われたくないなあ、という程度でスタンプを送ってしまったとき。そういえば私は「ありがとう」と言ったけど、あまり幸せじゃなかったような気がする。心が豊かになるどころか、スカスカになっていたような…。
考えてみると、ポジティブな部分が過剰に引き出されるのは、考えものかもしれない。私が海外でなら安心して「Thank you」を連発できるのは、本当にお礼を言いたくて言っていることが、しみじみ実感できるからなのだ。LINEのやりとりはスピードが速いから、うっかり気持ちより先に指が動いてしまう。とりあえず自分の「ありがとう」がオートマティックになっていたら要注意だ。そのために、あの背景の青空をどうにか曇り空にしてやれないだろうかと、私は本気で検討中である。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子、写真も/SANKEI EXPRESS)