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人間の本質、皮肉り蹴飛ばす 舞台「禁断の裸体」 内野聖陽さんインタビュー
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実力派俳優、内野聖陽(せいよう)さん。文学座の同期生である寺島しのぶさんとの舞台共演は7年ぶり。「『同志』は言い過ぎだけど、同じ演劇用語は持っている」=2015年3月11日、東京都渋谷区(野村成次撮影) 舞台に映像にと引っ張りだこの実力派俳優、内野聖陽(うちの・せいよう、46)が、ブラジルの劇作家ネルソン・ロドリゲス作「禁断の裸体」に主演する。ブラジルの灼熱(しゃくねつ)の太陽のもと、男と女、生と死、セックスと愛など、人間の本質を問う作品に、内野は「あらゆるものを皮肉って、蹴飛ばして笑う視点がある」と話す。
ロドリゲスはブラジルの近代演劇の先駆者とされ、「禁断の裸体」は1965年に発表、映画化もされた作品だ。生への執着や死への恐怖を、登場人物の複雑な心理をたどりながら扇情的に描いている。上演台本と演出は三浦大輔、出演はほかに寺島しのぶ、池内博之、野村周平、木野花ら。
忠実なカトリック教徒のエルクラーノ(内野)は、妻を亡くして立ち直れない中、兄を憎む弟パトリーシオ(池内)の策略で娼婦ジェニー(寺島)に出会う。欲望のたがが外れ、押さえ込んできた『生』と『性』のエネルギーが炸裂(さくれつ)、自分の知らなかった人間性に気づく。息子セルジーニョ(野村)は反発、次第に家族が崩壊していく。
「禁断の裸体」が書かれた1960年代のブラジルは、カトリック大国でありながら軍事独裁政権下にあり国民の不満が鬱積、政情が不安定だった。作品には当時の混沌(こんとん)とした世情が反映されており内野は「最初はよく分からない部分があった」と打ち明ける。
演出の三浦がブラジルを視察、試行錯誤の末、シンプルに物語をたどる方向に舵を切った。「あらゆるものを皮肉って、蹴飛ばして笑うのがネルソンの視点。人間は動物と同じじゃないかと。結局は男と女のシンプルな関係を描いている。エルクラーノは愚かで節操がない。でも見ていてほほ笑ましい。結局は人間ってそういうものだという、ラテン的な爽快感もある」
舞台の宣伝写真では、内野ら主要な登場人物が身体をさらけ出し、見る人を挑発するような鋭い視線を向ける。カトリックの教えに忠実であろうと本当の自分を押さえ込んでいたエルクラーノの行動に、内野は日本社会にも通じる普遍性を見る。「例えば会社のルールを守ることにがんじがらめになって、自由な発想や考え方が奪われるのは愚かしい。人間のために作られたルールが、人間を抑圧するツールになってしまうのは何か違うように思う」
文学座の同期生である寺島との舞台共演は、2008年以来7年ぶり。「彼女とは同じ演劇用語を持ち、互いに演劇を作る出発点が分かり合えている部分がある。一つになれるときは瞬間的に一つになれる。互いの気遣いは全くないさっぱりした関係です」
自分自身を「がむしゃらな人間」と評し、これまでも一つの役に入魂し、全生命力を傾けて演じてきたという。だが40代後半になり、今後は「自分を俯瞰(ふかん)する目を持ちたい」と話す。
俳優を目指す前はジャーナリスト志望だった。「物は真正面に見るより、斜に構えたときの方がとらえやすい。そんな眼力を身につけクールでありたい。その分、役ののめり込み度が薄くなる心配はある。杞憂(きゆう)ならいいけれど」と笑った。(文:藤沢志穂子/撮影:野村成次/SANKEI EXPRESS)
4月4~25日 東京 Bunkamuraシアターコクーン。<問い合わせ>Bunkamuraチケットセンター (電)03・3477・9999。大阪公演あり。