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「美術」でも近代化急いだ特異性 「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」
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竹内久一「神武天皇立像」(1980年、東京芸術大学)=2015年4月3日、東京都台東区(原圭介撮影)
「富国強兵」を目指した明治政府は、西洋に追いつけ、追い越せとばかり、近代化を進めた。「美術」もその例外ではなく、輸出工芸品の推奨や、西洋画法を導入した「日本画」教育、国威発揚への利用に血道を上げた。ボストン美術館と東京芸術大学大学美術館の収蔵品を比較展示する「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」(東京・東京芸術大学大学美術館)を見ると、その性急さ、特異性が手に取るように分かる。
そもそも「美術」という言葉(概念)は江戸時代までなかった。1873(明治6)年、ウィーン万博に参加する際、政府が使った訳語が最初だといわれる。
ところが、ウィーン万博では伝統工芸が高く評価され、ヨーロッパでのジャポニスム(日本趣味)のブームや、アールヌーボーの流行につながっていった。これに味を占めた明治政府は、工芸を“輸出産業”と位置づけて推奨する。
76年にアメリカのフィラデルフィアで独立100年記念の万博が開かれると、アメリカ(西洋)人が好みそうなエキゾチックな題材で、日本のものより大型の陶磁器や蒔絵、金工を多数出品。狙いは的中して売れた。
ボストン美術館収蔵の鈴木長吉「水晶置物」もこの時代、欧米で好まれた輸出工芸品の一つ。高さ40センチを超え、過剰に装飾的な置物は日本人の趣味には合うとは言えないが、広い外国人の邸宅に合わせてか、大振りに作られている。ほかにも、長さが2メートルもあって、手足が動く竜の「自在置物」や、七宝の技術で描かれた幅60センチの額絵などが海を渡った。
絵画では高橋由一(1828~94年)らが幕末から、イギリス人のチャールズ・ワーグマン(1832~91年)に「(西)洋画」を学び始めていたが、新政府が1876年、殖産興業を目的にした「工部美術学校」を設立した後は、バルビゾン派から影響を受けた風景画家、アントニオ・フォンタネージ(1818~82年)らが来日して教壇に立つ。
一方、「日本画」という概念は、岡倉天心(1863~1913年)に協力して東京美術学校(現東京芸大)の開設に尽力したアーネスト・フェノロサ(1853~1908年)が「美術真説」の中などで論じたのが最初という。
東京美術学校での「日本画」改革は、狩野派や円山派などの伝統絵画に、西洋の遠近法や陰影法を導入することだった。教授だった橋本雅邦(1835~1908年)の「雪景山水図」では、山水画の伝統は踏まえながら、奥行きを持たせて陰影を付け、西洋絵画の技法も取り入れている。
岡倉は人事問題で校長を辞すことになり、卒業生の横山大観(1868~1958年)や菱田春草(1874~1911年)らと日本美術院を設立。日本画の改革として、線を使わず、色彩のグラデーションで描く「朦朧(もうろう)体」を模索した。朦朧体の絵は、国内では「幽霊画」などと呼ばれて売れなかったが、ボストン美術館には残っている。
そして「美術」は、日清(1894年)、日露(1904年)戦争の時代を迎え、「国威発揚」にも用いられた。
古事記など神話の世界、天皇のご真影、戦闘シーンなどが描かれ、竹内久一「神武天皇立像」は台座も含めると、約3メートルに及ぶ木彫だ。
展覧会では、黒船来航による開国から約50年にわたる時代の約150点を展示している。監修した東京芸術大大学美術館の古田亮准教授は、「芸大のコレクションは日本人が『これぞ近代美術だ』と考えたもの、ボストン美術館のコレクションは、西洋人の視点から『これが日本の面白いところだ』と集められてきたもので、一致していない。この視点の違いを合わせると、近代の美術の形成の様子が分かる」と狙いについて話している。(原圭介、写真も/SANKEI EXPRESS)