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「天下分け目の合戦」再考 「大関ケ原展」
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重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵、提供写真)
徳川家康が没して400年目を迎えている。およそ300年に及ぶ太平を築いた徳川幕府。その幕藩体制が始まるきっかけになったのが「関ケ原の戦い」(1600年)だ。東京江戸博物館で開かれている「大関ケ原展」で、その戦いの意味を考え直してみたい。
9月15日、関ケ原には約20万人の武士が、東軍と西軍に分かれて対峙(たいじ)した。会場ですぐに目を引くのは、重要文化財「関ケ原合戦図屏風」など、壁一面に展示された3つの合戦図だ。旗印などによって、東軍は福島正則、黒田長政、井伊直政ら、西軍は石田三成、大谷吉継、島津義弘らの軍勢が判別できる。一触即発の場面を再現した大パノラマだ。
しかし、戦いが1日で終わり、それも数時間で大勢が決したことを知らない人は多い。そのきっかけになったのが、西軍につくと思われていた小早川秀秋の裏切りだった。秀秋は義理の叔父・羽柴秀吉の養子になり、ゆくゆくは豊臣家を継承する可能性があるとみられていたが、秀吉に秀頼という跡継ぎが生まれると、小早川家と養子縁組させられていた。
秀秋の裏切りで、よく知られるのは「問鉄砲(といでっぽう)」の場面。いつまでも裏切ろうとしない秀秋にしびれを切らした家康が、小早川陣営に向けて鉄砲を撃たせて催促する。司馬遼太郎の「関ケ原」では、こう描かれる。
火縄をはさみ、火蓋(ひぶた)をひらき、いっせいに引き金をひかせた。硝煙があがり、銃声は天へふきあがった。「なにごとだ」と、山頂で、秀秋はかん高い声をあげた。
「指物に覚えがござる。あれは内府(家康)の鉄砲頭布施源兵衛でござりましょう」と側近の者がいった。
「なに内府が」
「督促でござろう」と平岡石見がいった。(中略)秀秋のほうは顔色が変わっていた。「内府が怒っている。岩見、早くせぬか」
「裏切りでござるか」
「知れたこと」
1万5000といわれた一大勢力、秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなる。ただ、「関ケ原合戦の真実」(白峰旬著)などによると、問鉄砲のエピソードは、関ケ原の合戦直後の一次史料には登場せず、江戸時代中期ごろの文献で登場するため、合戦話をもり立てる作り話ではないかとの説がある。
しかし、秀秋の寝返りを促した文献は現存し、展示されている。「浅野幸長(よしなが)・黒田長政連署状」(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)がそれだ。黒田長政だけでなく、家康らの書状もたくさん公開されている。この時代、人心を掌握し、権謀術数を巡らすために、手紙は欠かせないツールだったのだ。
展示はほかに、石田三成が所有し、戦いの傷痕が残る刀「無銘 正宗 名物 石田正宗」(重要文化財)や、家康が関ケ原で身につけていた「伊予札黒糸威胴丸具足」(重要文化財)など、歴史ファンなら一度は見ておきたいものも多い。東京展示157件は京都、福岡の巡回で総数352件まで増えることになっている。この際、九州まで攻め入ってみるのも一興かもしれない。(原圭介/SANKEI EXPRESS)