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勝利の歴史刻む「要塞都市」 デンマーク・フレデリシア

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勝利の歴史刻む「要塞都市」 デンマーク・フレデリシア

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フレデリシアのしっかり保存された堡塁(ほうるい)では、今でも大砲が壁外の“敵”を狙っている=2015年4月20日、デンマーク(銭本隆行さん撮影)  【Viva!ヨーロッパ】

 ヨーロッパはほとんどの国が肩を寄せ合って存在してきており、血なまぐさい戦争が昔から絶えなかった。そのため、各国は要衝に「城」「要塞」を築き、他国の侵攻を防いできた。デンマークも同様で、最も大切な拠点の一つが要塞都市「フレデリシア」であった。

 国王にちなんだ名前

 デンマークでは1640年代、ドイツの30年戦争(1618~48年)に絡むスウェーデン軍のユトランド半島への侵攻を許した苦い経験から、半島に要塞を建設することを決めた。要塞都市は当初、建設を命じた王、フレデリク3世(1609~70年)にちなみ、名前を「フレデリクスオッド」とされたが、1664年にラテン語風に「フレデリシア」と改名された。

 三角状の岬の両岸を堀と城壁で弓状に取り囲み、内部は碁盤の目のような市街が形成された。しかし、敵の砲撃にさらされないように内部の建築物は低層化されていた。

 新たに出来上がった市街へ市民を移住させようとしたが、なかなか進まず、宗教の自由や免税権などをちらつかせ、移住を促進した。その結果、デンマーク人だけでなく、ユダヤ人やフランスからのユグノー(プロテスタントの一派)も多く移り住んだ。そのため、今でもこの町ではフランス語由来の苗字が多い。

 毎年7月6日にお祭り

 ユトランド半島南部のスレースヴィ・ホルステン両公国の帰属をめぐり、ドイツ連邦の支援を受けた両公国の軍隊は1849年、半島を攻め上り、フレデリシアを包囲した。デンマーク軍は劣勢にもかかわらず、陽動作戦や夜間の突撃を行い、7月6日、兵士1700人の命を犠牲にしながらも撃退に成功し、勝利した。

 デンマークの戦争史上、最も有名な勝利の一つとなり、国民は歓喜した。この勝利のおかげで、スレースヴィ・ホルステン両公国の帰属問題はしばらくは落ち着きを見せた。もっとも、両公国は1864年、プロイセンの鉄血宰相・ビスマルク(1815~98年)の手によって、プロイセンに帰属することとなる。しかしながら、フレデリシアでは、現在でも毎年7月6日、勝利を祝って祭りが開かれている。

 現代的街並みへ

 町はその後、次第に要塞の価値を失い、1909年からは狭い城内から城外へ移って住居を設けることが認められ、市域は拡大していった。

 フレデリシア市の人口は現在、約5万人。首都コペンハーゲンから橋と島を通って横断してくる高速道路とユトランド半島を縦断する高速道路がT字形に交わる国内最大の交通の要衝として、工場の誘致も進み、発展し続けている。

 城内の市街も整備され、街路樹やおしゃれな店が軒を並べる商店街が広がっている。

 「商店街を撮るんなら、あそこの塔も撮った方がいいよ」

 街並みを撮影していると、高齢の男性から話しかけられた。歴史深い街の誇りが、男性の笑顔からにじみ出ていた。(国民高等学校「日欧文化交流学院」(デンマーク名=ノアフュンス・フォルケホイスコーレ)学院長 銭本隆行、写真も/SANKEI EXPRESS

 ■城壁・要塞都市 ヨーロッパではかつて、ほとんどの都市が城壁で囲まれていた。現在でもしっかり保存されているフランス南部のカルカッソンヌやスペイン中部のアビラ、ルクセンブルク大公国の首都ルクセンブルクは有名。コペンハーゲンをはじめ、各国の首都も多くがかつては城壁で囲まれ、城壁の跡は環状道路になっていることが多い。

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