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鏡の向こうの異界とは 長塚圭史
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光線をゆがめるガラスもまた神秘を孕むのかどうか。記憶はゆがめられるような気がするのはなぜでしょう(長塚圭史さん撮影)
新作『かがみのかなたはたなかのなかに』の稽古がはじまった。2年前、「未来のおとなと、かつての子どもたちへ」と銘打って、新国立劇場の演劇部門としては初めての、子供にも開かれた作品にチャレンジしたときも、今作とまったく同じメンバーで臨んでいる。新国立で立ち上げるプロデュース公演としては異例なのではないだろうか。前作『音のいない世界で』は、もし音楽という概念が盗まれてしまったら世界はどうなってしまうのだろうというような「音」を主軸に置いたお話だった。
今回のモチーフは鏡。
私と鏡との関係は、映画『ポルターガイスト』を誤って見てしまったときにはじまったのではなかろうか。男が鏡を前に、皮膚の異変に気付き、触ってみると、どんどん顔の皮が剥がれていってしまうという恐ろしい場面に出くわし、途中で鑑賞を放棄したかったのだけれど、物語上さまざま解決していない中途でやめてしまっては、この恐怖から永久に脱することはできないと判断し、半泣きで最後まで見た、あの日である。かどうかは、実のところ定かでないのだけれど、ここまで鮮明に恐怖を記憶しているところをみると、そうであると言ってもよいのではないだろうか。
子供の頃に恐ろしかった映画も、大抵大人になると克服できるものなのだが、『ポルターガイスト』に限ってはどうも見直すことができずにいる。顔が剥がれてしまうような非現実的なシーンは、結局のところは特殊メークで作られているものなのだし、メーキャップ技術もまだまだ途上にあって、そもそもCGなんてものも発達してなかったのだから、冷静に見直せばなんてことはないのだろうと頭ではわかっているものの、わざわざそうした恐怖と再会する必要があるのだろうかという疑念から遠ざけたままである。
鏡への恐怖は少年から青年、おじさんへと育っていく中でも、うっすらとつきまとい、もともと苦手なホラー映画をそれなりに楽しめるようになった現在も、映画の予告編やテレビ番組などで、鏡を使った怖いシーンが流れるととっさに目を瞑るないしはチャンネルを素早く変える始末である。
けれど恐怖を感じているからこそ、私の想像は膨らんで、ここでおしまいというところがない。鏡の向こうに世界があるとしたら、果たしてこちら側から向こうへ入り込むことができるのか。鏡の世界の人々にとっては、われわれもまた同様に異界の住人と映るのか。そもそもあいつは同一人物なのか。かつて死者の世界は時の流れから何からすべてがこの世と逆さまであるというような迷信があったが、鏡の世界のあべこべは死の世界の糸口なのであろうか。するとドラキュラ伯爵が鏡に姿が映らぬ理由は、「死」の確約を失い、現世をさまよう肉体であるからか。つまり死するものたちのみが鏡の投影を許される。そうした鏡の世界の中にある鏡は、果たして何を映すのか、また合わせ鏡のかなたはどこにあるのか。いやいやまったくどうにも果てがない。
合わせ鏡の間に入った私は、ミクロのかなたまで永遠に続いているのかもしれない。あるいは在る地点で途切れ、そこからは無なのかもわからない。ということは、合わせ鏡は合わせたその時すでに、連続の終わり、真っ白なのか真っ黒なのかもわからないが、無が映りこんでいるということなのか。そう。永遠も無もわからないから恐ろしい。
私の鏡への恐怖は「不明」にある。もちろん鏡の向こうに世界があったとしたら、鏡というものが異界へ通じる何かであったらと仮定して初めて生じる不明性ではあるが、そうした可能性がまったくないというような絶対的科学の上にわれわれが生きているとは到底思えない。僅かなりとも可能性がある以上、やっぱりあるかもしれないのだ。そうなってくるとやはり鏡の孕(はら)む非日常性は神秘といえる。これだけ日常的に使用されている超自然的、魔術的道具は他にそうそうないだろう。
だからやっぱりこうして怖いまま、恐ろしいまま、私の何処までも羽ばたく空想の片鱗(へんりん)を、日常に潜む物語のかけらを、なるべく生のまま、皆さまに、そうした世界がまだはっきりと見えるであろう子供たちと、鏡をただの身だしなみの道具と思い込んでしまっている大人たちへ、お見せすることができたらなあと、恐怖を押し殺して、なぜだか大笑いで、今も稽古の真っただ中。(演出家 長塚圭史、写真も/SANKEI EXPRESS)