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フランシス・オブロコハウスの憎からざる思い出 長塚圭史
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先日道端の猫に話しかけていたらしく、通りがかりの人にずいぶんと奇怪な目で眺められた=2014年6月14日(長塚圭史さん撮影)
フランシス・オブロコハウスの話をしよう。もう30年以上前にわが家で同居していた血統書付きのヒマラヤンのことである。彼はまだ幼い私や姉のことを完全に軽蔑、すなわち、たやすく出し抜けると信じており、事実私たち子供の目を盗んでは、家から飛び出し頻繁に行方をくらまし、隣家の魚を盗むなどする傍若無人ならぬ傍若無猫ぶりであった。それでいて間抜けなところもあり、アパート3階のベランダに盗み出る度、足を滑らせ、一階の八百屋のテント屋根に落下していた。ややこしいのは、当時暮らしていたアパートはペット禁止であったゆえ、大家の経営する八百屋にヒマラヤンが落ちて来るというのは大変に間違った、困った話であって、一体母がどう誤摩化していたのか想像もつかないが、わが家と同じ階に暮らしていた他の2世帯とも、やはり猫を飼っていたことを思うと、昭和のアパートメントらしい、あってないような緩やかな規則になっていたのかもわからない。
それにしても愛想のない、逃げ出してばかりの、子供が大嫌いな、いつも腹を壊しているフランシスだったのにも関わらず、行方不明となると泣きながら日が暮れるまで探し歩いたのはなぜだったのだろう。幼い私はフランシスに恋い焦がれるあまり、ちょっかいを出し過ぎて嫌われてしまったのであろう。餌を与えるもののみが愛される特権を得るのだと思い込み、母に頼んで幾度かその役割を担わせてもらったが、無論見抜かれており、到底あのひねた猫心をつかむことはできなかった。母の足下にのみ丸くなるフランシス。私になでられると心底うるさそうにして、しばらく我慢した後、ひょいと私から離れるフランシス。
このフランシス・オブロコハウスとの苦い思い出ゆえに、私が成人してから実家にやってきたロシアンブルーのノエルとの関係は良好であるといえるだろう。子猫の時分に遊んであげたことが功を奏したというよりも、そもそもノエルがメスであるというところが大きかったように思う。若い頃、極度に人を嫌ったノエルであったが、母と私にだけは心を開いた。母は恐らく文字通り母として。
しかし今思えば、私には男として寄り添ったのではないだろうか。甘えて擦り寄って来る様は、飼い主に甘えるというよりも、どうも恋のようなものに近いような気もして、それでいて面白がってあまり近寄るとフランシスのようなことになってしまいかねないので、適度に距離を取る、それもまたノエルの満たされぬ恋心をくすぐったのではあるまいか、などと無益な妄想を広げている。
年を重ねてからのノエルは次第に社交的になり、猫ゆえにその表情にまだかわいさはしっかりと残すものの、ぐっと老練して、男の気をひくなんていう軽薄はせず、母や、むしろ同性である私の妻と静かに過ごすことを好んでいるようにも見える。それにしても、子猫のときからかわいがっていたものが、寿命から数えれば、私をすっかり追い越していったわけである。とすると彼女の中で流れていた時間は明らかに私のそれとは違うわけで、一体彼女の瞳に世の中はどのように映じているのだろうか。一日一日はわれわれのそれよりももっとずっと濃いのかもしれない。夜明けから暮れていくまでの光を捉えるその目に映る鮮明は、ああしてふと立ち止まってじっと見つめる程に美しいのかもしれない。彼女たちの空を見つめる時間(とき)に、猫にのみ可視化された粒子のうねりを思わずにいられないのだ。
さて猫のことばかりつらつらと書き連ねるのにはワケがある。私は元来猫が大好きではあるけれど、常々生き物との共同生活は息苦しさを招くばかりだと自らに言い聞かせていた。ところが先日妻の所へ転がり込んだ里親話に「いただきましょうその子猫」と即答してしまったところなのだ。どうにも縁ある子猫なのだ。なにせ私は昨年その母猫とテレビドラマで共演している。そして生まれたばかりの子猫を譲ってくださるのは、現在朝の連続テレビ小説でご活躍なさっているあの方。細かいことを話せばキリがないが断る理由は見つからなかった。数日後に届くその子猫を待つわが家は、気がつけば猫の話ばかりであり、こうして筆の先にも猫の話がはみ出てしまっているわけなのである。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS)