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【溝への落とし物】船釣りの思い出 本谷有希子
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そして今回、釣れた魚…=2015年6月14日(本谷有希子さん撮影) 釣りに行かないか、と誘われた。
それもただの釣りではない。海釣りである。ちょうど6月にみんなで沖縄へ行くと言ったら、現地の知り合いが船を出してくれる話になったらしい。
海かぁ、と私は呟いた。正直、釣りというもののおもしろさが、とんと分かったためしがないのである。前に一度だけ、湖にブラックバス釣りに連れて行ってもらったことがあったが、その時も、私はほとんどさおには目もくれず、みんなで釣ったほうが楽しかろう、と二艘のボートをタオルでくくり付け、バラバラにならないようにせっせと精を出していたのだった。それでも、結局、同行することにしたのは、波もなく穏やかな海だと、前日に聞かされたからだ。
ところが、船が陸を離れてから十分もたたぬうちに、私はもう陸が恋しくなっていた。早々に気持ち悪くなってしまい、最初のスポットに着く前から、クーラーボックスの上でじぃっとしていることしかできなくなってしまったのだ。むろん、これでは釣りどころではない。何時頃までやるのかな。もうひとり、脱落してクーラーボックスに座っていた女の子にひそひそ聞いてみると、「いつもはこのまま夕方ぐらいまでやるみたい」という答えが返ってきたので、うへえっと声をあげそうになってしまった。それなら、あと7時間はこうしていることになる。
目の前が真っ暗になりかけていると、さっきまで船の先端でグルクン(タカサゴの沖縄地方の呼称)を釣り上げていたはずのケンがやってきて、「なんか手がしびれる」と言いながら座り込んだ。見ると、ケンの顔色も真っ青だ。
私はクーラーボックス組ができたとひそかに喜び、「吐いちゃいないよ。いっそすっきりするよ」などと、しきりに嘔吐(おうと)を勧めた。ケンはすっかり憔悴(しょうすい)しきった様子で、うんうん、とうなずいていたが、少しすると、何かに呼ばれたようにすっと立ち上がった。どうしたんだろうと目で追うと、側でさおを動かしていたシンカワさんに、ケンは声をかけ、そして、
「したがほつえるろって、ふなよいのひょうじょうでふかえ」
と、言った。
「え?」とシンカワさんが聞き返した。私も、ケンがなんと言ったのか、まったく分からなかった。
「したが、ほふれるんでふけど、ほれってふなほひのひょうじょうでふか」
そう言って、ケンの手はぶるぶるぶるっと、電気を通されたように震え出した。人相もまるで別人のように引きつっていて、その時、ようやくこれはただごとではない、と私も気づいた。
「あっ、こりゃまずいっ。脱水症状だね」
シンカワさんは鍋の火加減を見るときのような声でそう言うと、クーラーボックスから、アクエリアスのペットボトルとオリオンビールの缶を取り出した。とにかくこれ飲んで、脇の下と首、冷やして。
私たちは大慌てで言われた通り従ったが、ケンの手足はそこだけ地震でも起こっているようにがくがくと震え、紙コップにいくらアクエリアスを注いでも、ほとんど床にこぼしてしまった。それでも、何度も何度もわんこそばのように注ぎ直して、飲ませてやっているうち、どうにか少し落ち着いてきたようだった。
「船酔いじゃなかったんだね」と私は言った。てっきり同志だと思っていたのに、リンゴの中に、しれっと、みかんが紛れ込んでいたような妙な気持ちになった。
死ぬかと思った。ケンは、しみじみした口調でつぶやいた。あれから、すぐに胃の中のものをぜんぶ吐いてしまったせいで水分がまたなくなり、ケンは二度目の脱水症状を起こしたのだ。しかし、そのおかげで、私たちは途中で船を下りることができたのだった。だって、あの人たち、俺が泡吹いてるのに、みんな平然と釣りしてるんだもん。誰も、陸に戻ろうかって言ってくれないからさあ。
帰り際、沖縄らしいものを思い出そうとしてみたけれど、蒼い海も澄んだ空も、死にかけたケンの姿に邪魔されて、ちっとも浮かんでこない。あー、もう船に乗ることはないだろうな、と思いながら、私は慌てて水分を補給した。(劇作家、演出家、小説家 本谷有希子/SANKEI EXPRESS)